本と音楽の未来を考える

いま、思うこと 第11〜20回 of 島燈社(TOTOSHA)

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

工藤茂(くどう・しげる)/1952年秋田県生まれ。フリーランス編集者。15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

第11回:福島第一原発、高濃度汚染水流出をめぐって

 7月22日、参議院選挙投票日の翌日だった。東京電力は福島第一原発敷地内の高濃度汚染水が海に流出していることを認めた。唐突な発表だった。その後の報道では「じつは2日前には分かっていた」、さらに「4日前には分かっていた」とも流れた。そして、7月22日以降も日を追って新たな漏洩が際限がなく発表され、まさに現場はダダ漏れ状態のようだ。
 原発事故から1カ月後の2011年4月、2号機取水口付近などで高濃度汚染水が海に流れ出る事故があったが、今年の6月19日には、1、2号機タービン建屋東側の地下水から高濃度のストロンチウムとトリチウムを検出したことを公表している。おそらく、この2年間ずっと漏れ続けていたのではなかろうか。

 毎日数人の方のツイッターに目を通しているが、そのなかのひとり、仙台赤十字病院の呼吸器科医岡山博氏は、2011年3月30日、超高レベル汚染水はセメントで固体化して管理すべきで、液体でのタンク貯蔵は長大配管や継手で必ず漏洩が起きることを、森ゆうこ前参議院議員を通じて当時の菅首相に忠告していたという。さらにこの経緯については、現在文章にまとめているという(岡山博氏ツイッター)。
 2年前にタンクの設置作業にかかわった下請け作業員のひとりが、共同通信の取材に応じている。増え続ける汚染水対策のため、次から次へとタンクをつくらなければならなかった。品質管理よりつくることが優先で、「漏れるのではないか」といった心配はあったが、3日に1基のペースで設置し続けたと答えている(9月1日付『東京新聞』web版)。
 『週刊朝日』9月6日号には、「汚染水には、地震、津波の影響でがれきもまじっており、タンクの傷みが予想より激しい。耐用年数はかなり短くなるだろうな」と危惧していたという吉田元所長のコメントとともに、フクイチ幹部の次のような発言が紹介されている。
 「当初、本店は東芝製のALPSを使えば、汚染水の放射性物質を除去して海に放出できるので、『タンクは必要なくなる』と豪語していた。それがALPSの故障でタンク増設を余儀なくされ、交換できる状況ではなくなってしまった。(中略)タンクやホースを交換する作業をするとなれば、作業員の被曝線量がかなり高くなり、被曝事故の心配もある。吉田さんも『1年ほどでホースはすべて交換したいが、高い線量でそれができるのか』と心配していました」
 タンクから汚染水が漏れ続け、高線量のため作業員も近づけず、タンクもホースも交換ができないとなると、いったいこれからどうなるというのだろうか。

 TBS-TV「報道特集」(8月31日放映)では、2年前に、原子炉建屋を囲む遮水壁計画が幻に終わっていた事実が明らかにされた。計画をすすめていた民主党の馬淵首相補佐官と当時の吉田所長が遮水壁の位置まで確認していたが、記者発表直前に東京電力幹部の反対で頓挫し、馬淵首相補佐官は更迭されたという。
 そして9月3日付『東京新聞』の記事は「報道特集」の内容と関連すると思われる。福島県民らでつくる福島原発告訴団は、2011年6月に東京電力から政府に宛てた文書を入手したが、そこには、東京電力が汚染水対策として原発地下の四方に遮水壁をつくるのが「最も有力」としていながら、1千億円規模の費用や着工時期を公表しない方針が記されていたという。結局、遮水壁は海側にしかつくられず、汚染水は流出することになった。
 このように見てみると、汚染水漏洩の問題は東京電力幹部も政府もすべて承知のうえで放置してきたことがよく分かる。しつこくいうが、高濃度汚染水はいまになって漏れ始めたのではなく、事故直後からずっと漏れ続けていたのではないだろうか。

 水を用いての冷却はもう限界だという声もある。京都大学原子炉実験所の小出裕章氏は金属を用いての冷却を提唱しているが、それにくわえて福島第一原発一帯のたっぷりと水を吸って緩んだ地盤が危険だとしている。これだけ地面が水を吸ってしまうと、さほど大きな地震でなくとも壊れかかった原発に大きな被害がおよびかねないというのだ。とりあえず9月4日の震度4の地震では問題はなかったようだが、このところ頻発する竜巻も気になるところだ。

 安倍首相は汚染水漏洩の問題から必死に逃げているようにしか見えなかったが、原子力規制委員会がIAEAに打診したうえで「レベル3」に引き上げたことを受けて、いよいよなにか言わざるを得ない情況に追い込まれてしまった。外遊先のカタールでの記者会見で、「政府を挙げて全力で取り組んでいく。政府が責任を持って対応し、国内外にしっかりと発信していく」と述べた(8月29日付『朝日新聞』web版)。
 一貫して国策でおこなってきた原発事業である。事故直後から金子勝慶応大学教授らが言っていたように、東京電力などさっさと解体して即座に国が収束作業にあたるべきはずのものだった。民主党政権当時より政府は一貫して逃げてきた。なにをいまさらと訝しく思うし、「税金を使うなどとんでもない」という意見にも与しない。
 8月30日付『産経新聞』web版に面白い記事があった。いや、被災地の方々を思えば面白いなどと言ってはいけないところだった。
 「東京電力福島第一原発の汚染水問題で、政府が抜本的な解決策の概要を来週中に公表することが29日、分かった。汚染水問題は国際社会でも懸念が高まっており、政府が東京への招致を目指す2020年夏季五輪の開催地が9月7日の国際オリンピック委員会総会(アルゼンチン)で決まるのを前に対策を打ち出し、不安を払拭したい考えだ」
 ようするに、海外で汚染水問題が大きく報道されていることを受けてのことなのだが、このまま放置していたのでは、オリンピックの東京招致に影響が出そうなために、政府が前面に出て対策に乗り出すぞということである。優先するのはあくまでもオリンピック招致であって福島ではないという、安倍首相の本音を開けっぴろげにしてしまった記事で、「面白い」と思ったのが正直なところである。どうかお許しください。
 ところが同じ30日の深夜、『朝日新聞』web版には「汚染水漏れ、国会チェック機能果たさず 審議先送り」とあって、記事に目を通してこれにも驚く。
 衆議院経済産業委員会において汚染水に関する閉会中審査が検討されていたが、五輪開催地決定直前に審議に入ると、審議を通じて事故の深刻さや政府の対応の遅れがさらに強調されて世界に報道されてしまい、東京招致に悪影響をおよぼすという懸念がひろがったため、審議は先送りにし、9月7日までに発表する政府の対策を見極めるというのである。
 これは明らかになにかを隠していると思わせる報道で、これが世界を回ったら「こりゃ相当ヤバそうだぞ」という印象がひろがるだけで、かえって逆効果としか思えないのだが。
 2020年東京オリンピック招致委員会がブエノスアイレスで開いた記者会見では、外国メディアから汚染水漏れに対する質問が集中し、説明が不充分との不満が相次いだという(9月5日付『東京新聞』)。続いて開かれた2回目の会見で、竹田恒和理事長が「東京は水、食物、空気についても非常に安全なレベル」「福島とは250キロ離れている」と述べた。これに対し東京へ避難している福島県の方からは「『東京は安全』と強調するのは『福島の現状はひどい』と認めるということ」という反発が起きている(9月7日付『東京新聞』)。さらにNHKのニュース番組での法政大学教授山本浩氏(元NHK解説委員)の「福島県民が東京オリンピック招致を呼びかけるくらいのことをしてほしい」という発言にもツイッターで反発がひろがった。
 安倍首相は、2020年までには汚染水の問題は解決していると強気の姿勢で押し通した成果があってか、東京オリンピック開催決定のニュースが飛び込んできた。安倍首相の話は根拠の希薄なものとしか思えないのだが、そんなことはさほど問われることもないだろう。TV、新聞はもちろん、街はオリンピック一色に染められる。そうして、福島をはじめとする震災被災地は忘れ去られてゆくのだろうか。

 8月27日付『日刊ゲンダイ』には、「汚染水流出 太平洋の魚は食べるな!」という記事があった。
 カツオ、マグロなどの太平洋産の回遊魚は避けたほうがよいし、カツオ節も不安。太平洋の魚を安心して食べられる日は10世代先までない。ヒラメやカレイなどの底魚にかぎらず、汚染水流出でコウナゴなど浅い海の魚も要注意。ストロンチウムを考慮すると干物やイワシなど小魚のカラ揚げ、マグロの中おちなども心配といった内容で、もう魚は食うなと言っているも同様である。こういう記事をどう受け止めるか、それぞれが判断し行動するしかない。
 評論家の兵頭正俊氏は神戸在住でぼくよりも年長、放射能にはさほど敏感にならずとも済むお方と思われるが、「3.11以降、わたしもほんとうに魚介類を食べなくなった。これまで数回も箸を付けただろうか。わたしの食生活では、現在、中国産のひじきが唯一の海産物になっている」などと自身のブログに記している。
 東京圏に住んでいると目刺しは九十九里産と決まっているが、カミさんはなかなか買ってこなくなった。大好きなカツオの刺身もめったに口に入らず、カツオ三昧に暮らしていたころが懐かしい。以前に比べると食べる量はだいぶ減ったことは確かだが、それでも兵頭氏ほどでもなく、ほどほどに食しているのである。

 先日、ドイツのメルケル首相の高笑いが響いた。いや「高笑い」は言い過ぎた。もうちょっと謙虚だろう。9月1日、テレビの討論番組に出演したメルケル首相は、「最近の福島についての議論を見て、(ドイツの)脱原発の決定は正しかったと改めて確信している」と述べている(9月2日付『朝日新聞』web版)。さらにシリアへの軍事攻撃にも参加しないと毅然と答えていて小気味よい。それにしてもメルケル首相は、福島第一原発事故以降、個人的にはずいぶん好印象の人になってしまった。
 今回の高濃度汚染水をめぐる一連の報道を見ていて唯一救われるのは、とりあえず新聞、TVが報道してくれたことである。もう過去のこと、終わったこととして忘れ去られることがもっとも恐ろしい。すでに終わったこととして済ませたい勢力は厳然として存在するのであり、東京オリンピック開催決定をうけて反撃に出てくることだろう。これからもその分厚く巨大な壁と対峙していかなければならない。
 先日、日比谷公会堂では「9.1さよなら原発講演会」が開催された。会場はあふれるほどの人々の熱気に包まれ、空席を捜すのが大変なほどだったが、それでも集まったのはわずか2,050人でしかなかった。話の中身にはこれまで以上に濃いものが多かったのだが。 (2013/09)

<2013.9.11>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第12回:黎明期の近代オリンピック

 日本時間の9月8日、ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で、2020年オリンピック、パラリンピックの東京開催が決定した。深夜にもかかわらず地球の裏側からの生中継を見た人もたくさんいたようだ。ぼくが知ったのは夜が明けてからだが、朝起きてテレビのスイッチを入れるや否やモニターのなかは大騒ぎだった。ロゲIOC会長がカードを開いて「トーキョー」と言うシーンなど何度見せられたことか。新聞も大騒ぎだったし、街も浮かれていた。正直のところ、これが7年間も続くかと思うといささか気が重くなった。
 ところがどうだろう。騒ぎは思いのほか続かなかった。9月下旬になると、収まりつつあったところに追い打ちをかけるように巨大すぎる新国立競技場建設計画への懸念が報道され、急速にしぼんでいったようにも思えた。実際のところはどうか招致委員会のHPを覗いてみたが、さほど新しい話題が載っている様子もみられなかった。
 一方、最終プレゼンテーションで安倍首相が世界に発した「原発事故は完全にコントロールしている」の言葉のほうはずっと尾を引いているし、その後の汚染水関連の報道を見ていると、単純な作業ミスもふくめて、容易に収まるような様子はみられない。こんな状態のうえに11月からは4号機の燃料プールからの燃料取り出しというミスの許されない危険な作業が始まるのだが、どうみてもオリンピックを手放しで歓迎できる雰囲気ではないのだ。
 9月27日、広瀬隆氏は世界のアスリートたちにそんな状況を伝えようと、福島第一原発の現状を伝える写真や図版を網羅した英文のレポートをネット上に発表した。英語版だけでは不充分と思っていたところ、ドイツ語版、イタリア語版も発表され、アジア向けも制作中と聞く。

 ところで、近代オリンピックは、言うまでもなくピエール・クーベルタンの提唱によって始まる。1894年6月、パリで開かれた万国博覧会のときである。ソルボンヌ大学講堂で開催されたアマチュアスポーツに関する国際会議に乗り込むようにして登場したクーベルタンは、オリンピックの復興と国際オリンピック委員会の設立を提案し、満場一致で採択された。
 これがのちに「オリンピック・コングレス」第1回の会議とされ、そこで近代オリンピック第1回大会を1896年にギリシャのアテネで開催すること、以降、古代オリンピックの伝統にしたがい4年ごとの開催、世界各都市の持ち回りとすることが決められた。同時に会長就任を要請されたクーベルタンは、第1回大会に決まったギリシャの委員デメトリウス・ビケラスに譲り、みずからは事務局長として奮闘した。
 第1回アテネ大会は女子禁制という制限つきだったが、会長のビケラスの尽力もあって無事に開催された。のちギリシャ政府やビケラスらはアテネでの永久開催を主張し始めたのだが、第2代IOC会長に就任したクーベルタンの強力な説得工作もあって、第2回大会はクーベルタンの母国フランスのパリでの開催が決定された。
 クーベルタンの情熱を母国は必ずしも歓迎したわけではなかった。フランス政府はオリンピックをたんなるスポーツ・イベントとしてとらえ、同じ1900年にパリで開催される万国博覧会の付属競技大会と位置づけた。「万国博覧会国際競技大会」──これが第2回オリンピックの正式名称である。競技全体の開会式、閉会式はなく、開催期間も半年間という長期におよび、10日間でおこなわれた第1回アテネ大会とは大きく異なるものになった。
 続く1904年の第3回大会は、アメリカ合衆国のセントルイスに決定したが、パリ大会同様にセントルイス万国博覧会の付属競技大会となり、開催期間も5カ月近い長期にわたった。
 1908年、第4回大会は一度決まったローマが資金難から返上したために急遽ロンドンにて開催された。2回、3回同様にロンドンで万国博覧会が開催される予定だったが、イギリスオリンピック協会初代会長デスボローは、博覧会実行委員会より多くの支援を受けつつも付属大会になることを強く拒否し、本来のオリンピックの姿に戻している。しかし開催期間だけは博覧会に合わせて半年間という長期におよんだ。
 そのほか、それまでは個人やチームによる参加だったが、このロンドン大会から各国のオリンピック委員会を通してしか参加できないという参加規定がつくられるとともに、開会式では参加選手たちはそれぞれが所属する国旗のもとにプラカードを持って国家の代表として行進することと、1位、2位、3位の選手・チームに金、銀、銅メダルを贈るなど、その後のオリンピックの原型を形づくるものとなった。
 1912年、第5回大会はスウェーデンのストックホルムで開かれた。これまでアジアの国からの参加はなく、1909年にアジアで初めてのIOC委員に就任していた嘉納治五郎のもとに、会長のクーベルタンからオリンピック参加を求めるメッセージが届けられ、それに応える形で日本が参加している。
 団長の嘉納治五郎と監督の大森兵蔵、陸上短距離選手の三島弥彦とマラソン選手金栗四三の4人が参加し、開会式では大日章旗を持った三島と国名が書かれたプラカードを手にした金栗が場内を一周した。三島が100、200,400メートルに出場、国内選考会では当時の世界最高をマークしていた金栗だったが日射病のため32キロ地点で棄権となった。
 ちょっと脱線するが、ネット上でさまざまな情報をあさっていたところ、次のような記事に出会った。時事通信2008年5月12日の配信である。第5回ストックホルム大会から55年後の1967年、スウェーデンオリンピック委員会から記念行事への招待を受けた75歳になっていた金栗はストックホルムのスタジアムでゴールのテープを切った。そのときにスタジアムに流れたアナウンスがこれである。
 「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」

 黎明期の近代オリンピック、とくに第2回パリ大会、第3回セントルイス大会は万国博覧会と密接なつながりがあったことが理解できたことと思う。そもそもクーベルタン自身の構想のなかには、オリンピック競技大会とともに、古代から現代までのスポーツを紹介し、スポーツへの関心を高めるためのスポーツ博覧会のようなものがあったという。
 1889年、フランス革命100周年にあたりエッフェル塔が建設されるなど、これまでの最大規模のパリ万国博覧会が開催された。26歳のクーベルタンはこの万国博覧会を詳細に見学し、スポーツをこうした国際的なイベントに組み込むことの意義を感じ取っていた。そうして1894年のパリ万国博覧会での「オリンピック復興」の提案へとつながる。
 万国博覧会とは大規模な見世物小屋のようなものである。1889年のパリ万国博覧会には「植民地展示場」という展示があり、アジア、アフリカの植民地の町並みが再現されている。フランス政府の帝国主義政策に世論を引きつけるための展示で、そこにはアジア、アフリカの住民182人が連れてこられ、見世物となって歌や踊りを披露させられた。
 1904年のセントルイス万国博覧会の「未開民族の」展示場には、さまざまな先住民族が集められるとともに、セントルイス・オリンピック組織委員会の企画によって「未開民族のオリンピック競技大会」として「人類学の日(Anthropology Days)」が設けられた。
 未開な民族はスピード、スタミナ、筋力において優れた運動能力を持っているという「うわさ」を実証することを目的に、組織委員会が正式に認めた競技大会としておこなわれたのである。ちなみに、当時のオリンピックの競技種目は、開催都市のオリンピック協会や組織委員会の裁量に任されていた。
 メキシコの先住民族ココパ、南米パタゴニア人、米国の先住民族スー、チペワ、プエブロ、ポーニー、カナダの先住民族クワキュートル、フィリピンのモロ、ネグリト民族、日本のアイヌ民族、アジアのシリア人、トルコ人、アフリカのピグミー、バクバ、ズールー民族などが参加したが、いずれも万国博覧会の「未開展示場」への参加者でもあった。もちろん1889年パリ万国博覧会「植民地展示場」同様、各個人の自発的な参加とは考えにくい。
 競技は2日間にわたっておこなわれ、1日目は、同じ民族同士で同一種目の競技をおこない、2日目は各民族の1位、2位を集めて種目ごとに決勝がおこなわれた。競技種目は100ヤード競争、1マイル競争、120ヤード・ハードル、走り幅跳び、走り高跳び、大型ナイフ投げ、野球ボール投げ、やり投げ、アーチェリー、柱上り、綱引きなどで、柱上り以外は、当時のオリンピックの競技種目と同じである。
 記録には日本から参加したアイヌの人々の名前も残っている。コウトウロケ、ゴロー、オーサワ、サンゲアの4人で、2日目の競技ではコウトウロケが槍投げで3位、サンゲアがアーチェリーで2位に輝いているが、競技記録全体としては未開民族の驚異的なスピード、スタミナ、筋力を証明する結果とはならなかった。
 この「人類学の日」の実施を、オリンピックにふさわしくないとして不快感をあらわにしたクーベルタンはセントルイス大会に一度も顔を出さなかったという。近代オリンピックの創設者でもある彼の言い分はこうであった。
 「このけしからん茶番劇に関しては、将来、黒人や赤人、黄色人が走ること、跳ぶこと、投げることを学び、白人を追い越してしまうときがくれば、もちろんオリンピックはその魅力を失うことになるだろう」
 クーベルタンの構想したオリンピックは白人に限定されたものだったのである。そして「人類学の日」だけが彼の不快感の対象ではなかった。アメリカの黒人陸上競技選手ジョージ・ポージは、オリンピックの人種隔離に反対しボイコットを呼びかける黒人指導者たちの声に抗って参加し、200メートルと400メートル・ハードルで銅メダルを獲得している。
 このときから5年後の1909年、クーベルタンは「黄色人」である嘉納治五郎に対してIOC委員への就任を要請することになる。はたしてクーベルタンの心境にどのような変化があったのか、いまとなっては推測するしかない。

 セントルイス大会では「人類学の日」のほかにも、大学運動クラブ同士の競技や13〜14歳の少年による競技、ハンディキャップ競技など、広範な競技大会が開催され、どの種目や競技を正式なものと認めるのかIOCでも公式に決定することなく現代まできているという。したがって「人類学の日」の扱いについても、資料によって一様ではないらしい。
 日本オリンピック委員会のHPでも、この件にはまったくふれられていない。当時はまだチームや個人としての参加だったのであるから「日本人が初参加」程度の記述があってもよさそうに思うが、それもない。第5回ストックホルム大会については「オリンピックの歴史」の項で「日本がオリンピックに初参加」と記されている。しかしながら、同じ日本オリンピック委員会企画・監修による『近代オリンピック100年の歩み』(ベースボールマガジン社、1994年)には、セントルイス大会について次のような記述があるという。
  「IOCのデータによると、開催期間は 7月 1日から 1月 23日までの 5ヶ月弱。 12ヶ国から554人の選手が参加したとされている。
  開催期間が長いのは、前回のパリ大会と同じように博覧会の付属物となってしまったためだ。18競技 95種目とは別に『人類学の日』
  との名前のもとに、アメリカ・インディアン、アフリカン・ピグミー、ニグロ、パタゴニア人、ア イヌ人、モロー族などの原住民を
  対象とした競技もこの期間中に実施している」

 ためしにパソコンで「人類学の日」と検索してみても反応が少ないが、「Anthropology Days」では数多くヒットしたのは予想どおりだった。日本では意図的にふせられているとも考えられるが、関心は低いようである。英語圏では「Anthropology Days」をテーマとした少なくない数の書籍が出版されているのである。
 今回のテーマは、上村英明『先住民族の「近代史」──植民地主義を超えるために』(平凡社選書、2001年)の「第一章 近代オリンピックと先住民族」によるが、オリンピックと聞くたびに10年前に偶然出会った本書の記述を思い起こす。この稿に記した多くは上村氏によるものだが、ほかにネット上にある宮武公夫「人類学とオリンピック──アイヌと1904年セントルイス・オリンピック」(『北海道大学文学研究科紀要 108号』2002年)も参考にした。 
                                (2013/10)

<2013.10.22>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第13回:お沖縄県国頭郡東村高江

 この10月、琉球朝日放送制作のドキュメンタリー番組を劇場用に編集し直した映画『標的の村』を観た。東京では8月から上映が始まっていたのだが、時間的な余裕がなくあきらめていたところ、まだ上映されていることを知り、あわてて駆けつけたというありさまだ。上映開始から2カ月も過ぎているせいだろうか、観客はわずか10人ほどだった。

 舞台は沖縄本島北部「山原[やんばる]」の森林地帯。そこはヤンバルクイナやノグチゲラなどの固有種をはじめ、絶滅危惧種の植物などの生息地でもある自然豊かな地域であり、沖縄本島の生活用水の60パーセントをまかなう5つのダムが点在する貴重な水源地帯でもある。
 そんな山原に、総面積7,800ヘクタールもある広大な米軍北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)というとんでもないものがひろがっている。アメリカ施政権下の1957年、ゲリラ戦やサバイバル訓練を目的としてつくられた世界唯一の訓練場である。
 国頭[くにがみ]郡東村[ひがしそん]は山原の南東部に位置し、村の中心部より大きく北に離れたところに国頭村と接して高江区がある。東村北部の海岸は断崖絶壁がつづき港はない。地図によれば東村の多くが北部訓練場に占められていることが見て取れるが、なかでも高江区は訓練場のなかに集落があり、頭上を軍用ヘリコプターが飛びかう日常となった。
 そして1960年、ベトナム戦争が始まり、本島南部の嘉手納基地はB52戦略爆撃機の出撃基地になると同時に、沖縄は米軍の前線基地となっていったころのことである。北部訓練場にはベトナム村というものがつくられた。ベトナム風の民家を並べてベトナムの山村にそっくりな村がつくられ、実践に近い形の襲撃訓練がおこなわれていたのである。そのゲリラ戦の訓練には、近くの高江の住民たちが駆り出されたという。ベトナム風の黒い服を着て三角帽をかぶって家族総出でベトナム人役=米軍の標的として、参加させられたのである。
 当時の地元紙『人民』のつぎのような記述が紹介されている。「この訓練には乳幼児や5、6歳の幼児をつれた婦人を含む約20人の荒川(高江)区民が徴用され、対ゲリラ戦における南ベトナム現地部落民の役目を演じさせられた」(1964年9月9日付)
 またゲリラ戦に参加していた元米軍海兵隊員のコメントも取材している。「ベトナム村にヘリコプターが近づき、降りてきた海兵隊員がシューティングしながら村に近づいていく。ベトナム兵役は村に潜んでおり、隊員が村を攻撃して米兵を救い出しゲーム終了」。驚いたことに彼はベトナム村周辺に枯れ葉剤を撒く指示をうけ、彼自身いまでもその後遺症で苦しんでいるという。
 映画には、ベトナム村を見下ろす高台で、椅子に座って笑いながらその訓練を見物するワトソン高等弁務官の姿も映し出されていた。いつかTVで観たことのある天童市の人間将棋を思い起こしてしまった。
 いま、ベトナム村のことを記憶している高江の高齢者たちの口は重く、インタビューを拒否する人もいたという。それどころか米軍を悪くいう人は少ない。「軍には世話になった。毛布もくれたし道もつくってくれた」という言葉がすべてを物語っている。遠い日本国よりも、食べ物をくれたり学校をつくってくれる米軍のほうがよっぽど頼りになったというのだ。高江の人々は米軍と折り合って生きていくしかなかった。こうして、ベトナム村のことは大きく報じられることもなく、沖縄でも知る人は少なかったようだ。
 ベトナム村の掘り起こしがこの映画の主要なテーマではないのだが、ぼくにはこのベトナム村の話が衝撃的だった。そして高江ではいまもこれに近い状態が続いているのである。

 「米軍は私たちをターゲットに訓練をしている」「上空のヘリから銃を向けられた」──監督の三上智恵(琉球朝日放送)は、高江の人に聞いたこの話から取材が始まったことを映画のパンフレットに記している。ベトナム村のない現在、米軍は、北部訓練場のなかに埋もれるように暮らしている高江の集落やその住民たちを訓練の標的として利用しているのである。
 北部訓練場には米軍のヘリコプター離着陸施設であるヘリパッドが15箇所あるが、「沖縄の負担軽減」のために北部訓練場の半分を返還する条件として、返還予定地内にあるヘリパッドの高江周辺への移転などが日米間で取り決められた。
 それをうけて、2007年から6箇所のヘリパッドの新設工事が始まっている。それも人口160人あまりの小さな高江集落をぐるりと取り囲むように新設される計画だ。米軍の「環境調査報告書」にはオスプレイ配備が明記され、辺野古の新基地と一体でオスプレイの訓練につかわれるという。オスプレイが飛び交うなかで標的覚悟で暮らせということである。ヘリパッドに反対をかかげて当選した村長はその後容認に転じ、仲井間沖縄県知事も「負担軽減」名目の容認である。
 辺野古新基地に関しては、反対運動と仲井間県知事の拒否のため工事はまだ始まっていないようにみえるが、沖縄防衛施設局側では別事業といいながらこっそり新基地関連の工事に取りかかっていて、どちらの工事も進められているのが実態である。
 高江の人々による反対運動を中心に映画は描く。工事にやってくる防衛施設局側を通すまいと連日の座り込み、揉み合いが続く。国は国策に反対して座り込んだ住民たちを「通行妨害」にあたると訴え、裁判が始まる。国はあろうことか、現場には行ったこともない7歳の女の子までをも訴えた。個人を弾圧・恫喝するために力を持つ企業や自治体が訴えること自体をアメリカではSLAPP裁判と呼び、多くの州では禁じているが、日本にはそういう概念はないという。
 そして2012年9月9日、オスプレイの沖縄配備を前に開かれた県民大集会、9月29日、台風襲来のなか普天間基地の4箇所のゲートを同時に車でふさぐ完全封鎖へと突き進む。一般住民のほか県会議員、市会議員のみならず、国会議員や弁護士も参加し、完全に基地機能を停止させるという前代未聞の出来事だった。22時間後の30日夜には沖縄県警の機動隊が出動し強制排除に乗り出す。若い警官に言葉が投げつけられる。「だれかひとりぐらい意地を出して、(県民と衝突したくないから)帰りますって言え!」。車のハンドルにしがみついて立てこもり、くしゃくしゃの顔を涙で濡らして「安里屋ユンタ」をうたい続ける女性が映し出される。「安里屋ユンタ」はもともとは抵抗の歌だということを初めて知った。
 つらい映画だが、画面からはいっときも眼を離すことができなかった。

 TVや新聞では高江のヘリパッド工事についてはほとんど報じられない。TV朝日の「報道ステーション」でこの映画のワンシーンが流されたほか、『東京新聞』が2年前に特報面で取り上げたことがあるようだが、報道管制にちかいものが敷かれているという情報もある。
 日本政府はほとんど沖縄を棄てているのではないかと思う。マスメディアもそれにならい、日本本土の人々も同様で、自分たちが暮らすところは沖縄とは違う、沖縄はしょうがないと納得しているように思える。しかしいまの政治情況が続くと、いずれ日本全土が沖縄のようになっていくように思えてならない。沖縄の人々はそんな日本をさっさと見限ったほうがよいのではないだろうか。
 アメリカという大国を相手に、米軍の駐留のあり方をめぐって堂々と交渉を続けてきたイラクやアフガニスタンをうらやましく思う。それは日米地位協定のようなものは認めまいという必死の闘いだった。イラクはまったく譲歩せずに完全撤退を勝ち取ったが、アフガニスタンは11月20日、残念ながらアメリカ側に全面譲歩して長く続いた交渉を終えた。完全撤退を実現させたイラクにしても、すべて順調にすすんでいるわけではないのだが。

 11月15日、キャロライン・ケネディ氏がアメリカの駐日大使として着任した。ジョン・F・ケネディ元大統領の長女であるためか、アメリカでも話題になっているようだし日本では大はしゃぎだ。
 しかしながら、ケネディ氏には政治経験がまったくない。弁護士資格はあるが、前任のジョン・ルース氏のような弁護士としての活動実績もないらしい。4月3日付『ロサンゼルス・タイムズ』は社説で取り上げ、キャロラインさんにはモンデール副大統領やマンスフィールド上院院内総務のような経験が欠落していると指摘し、北朝鮮の核問題や尖閣問題など難問が山積しているときに、米国大使は象徴だけでは務まらないと論じたという(『東京新聞』9月29日付、木村太郎「太郎の国際通信」)。
 他方、ケネディ氏は徹底したリベラリストで、人権問題には関心の高い人物だともいう。そういう面では、期待していたオバマ大統領には深く失望しているという情報もある。そんな彼女に映画『標的の村』を観てもらえないものだろうか。天皇に手紙を手渡した山本太郎氏のように、ケネディ氏に『標的の村』の英語版DVDを渡して確実に観てもらう手立てはないものだろうか。
 彼女はなにを思い、どういった行動をとるのであろうか。年が明けると名護市長選挙がおこなわれる予定で、TV、新聞は否が応でも辺野古の問題を取り上げることになる。彼女は理不尽な日米関係とどう向き合うのであろうか。 
 『標的の村』は、ポレポレ東中野で11月28日まで上映しているようだ。 (2013/11)

<2013.11.25>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第14回:戦争のつくりかた

 この秋から冬にかけて、『明治文学全集45 木下尚江集』(筑摩書房、1965年)などというたいそうな本を読んだ。旧字・旧仮名・異体字だらけで2段組、450ページもある分厚い本をみずからすすんで読むはずもなく、仕事上のことゆえ隅から隅まで目を通すことになった。長篇小説から評論、新聞論説まで網羅されたそのなかで、「不幸にして日本人は世界の好戦者なり」という一節に出会って驚いた。
    「不幸にして日本人は世界の好戦者なり、其の嗜好は剣を抜き血を流がすことに在り、その技芸は城を踰
     [こ]へ人を殺すことに在り、之を以て日清戦争の凱歌を揚ぐることに得、又た之を以て北清事変の列国軍
     兵展覧会に先登の名誉を博せり、(中略)唯一の誇称たる愛国心とは則ち戦闘心の謂に外ならず、軍備拡
     張に抵抗するが如きは、其の愛国の情に於て到底容赦せざる所なり、」(漢字は通用の字形のものに改めた)

 明治36(1903)年5月11日付の『毎日新聞』に掲載された「戦争人種」という表題の論説で、日露戦争直前に書かれたことになる。清の義和団の乱鎮圧(北清事変)に欧米列強以上の大量の軍隊を送り込んで「極東の憲兵」と呼ばれた当時の日本の情況がよくあらわれている。
 いまの安倍内閣や石原慎太郎氏への支持の高さは、日本人の好戦的な部分からくるのではないかとかねてより思っていたことなので、驚きはしたものの妙に納得したところがあった。加えて集団的自衛権、NSC法案、特定秘密保護法案、武器輸出三原則見直しなどという言葉がテレビや新聞に躍っていたころに読んだこともあって、なおさらであった。
 先の引用のあとにも「万国の武装は世界平和の担保なり、此時に当[あたつ]て先づ其武装を解く者は、必ず先づ滅亡せざるべからずと」などと続いて、まさに安倍首相の「積極的平和主義」そのものではないかと思ったものである。もちろん木下尚江はこういった風潮を非難する立場から書いているのだが、これが110年前の日本の姿だった。この半年後、日露戦争に突入することになるが、太平洋戦争直前もおそらくこんな様子だったのだろう。

 2009年に亡くなった歌手の忌野清志郎氏が、阪神淡路大震災の数年後に「地震の後には戦争がやってくる。軍隊を持ちたい政治家がTVででかい事を言い始めてる」(『瀕死の双六問屋』光進社、2000年)と書いている。
 自民党の小泉内閣が「備えあれば憂いなし」と有事関連3法案を閣議決定に持ち込み、2003年には自民、公明、民主の3党の賛成をもって国会を可決、成立させて有事(戦争)体制を固め始める。この3党はすぐさま有事における憲法の一時停止、国民の権利・自由の制限、私有地の強制使用、報道・言論統制などをふくんだ有事関連7法案の審議へと突き進んでいくが、それでも小泉内閣の支持率は50パーセントを超えていたのだから、支持者は少なくなかったといえる。東日本大震災の翌年にできた強権的な第二次安倍内閣の支持率は、特定秘密保護法案の強行採決後急落との報道もあるが、50パーセントを若干切った程度なので、まだそれほど低くはない。そして新防衛大綱、中期防衛力整備計画、国家安全保障戦略などとすすみつつある。

 今回の特定秘密保護法案のときに偶然知ったのだが、10年ほど前に発行された『戦争のつくりかた』(マガジンハウス、2004年)という本がある。解説や資料をふくめてもわずか50ページほどの絵本だが、そこから気になる言葉をいくつか拾ってみることにする。
  「わたしたちの国は、60年ちかくまえに、『戦争しない』と決めました。

  でも、国のしくみやきまりをすこしずつ変えていけば、戦争しないと決めた国も、戦争できる国になります。

  わたしたちの国を守るだけだった自衛隊が、武器を持ってよその国にでかけるようになります。

  せめられそうだと思ったら、先にこっちからせめる、とも言うようになります。

  戦争のことは、ほんの何人かの政府の人たちで決めていい、というきまりをつくります。

  政府が、戦争するとか、戦争するかもしれない、と決めると、テレビやラジオや新聞は、政府が発表したとおりのことを言うようになります」

 そして、国民の監視、密告奨励、戦時体制下での軍隊への協力義務、軍備増強のための増税、憲法改正へと、平和憲法の国から戦争のできる国へと変貌していく過程が描かれる。そして、終わりのほうには次のような言葉がおかれる。
  「人のいのちが世の中で一番たいせつだと、今までおそわってきたのは間違いになりました。一番たいせつなのは、『国』になったのです」

 この絵本の出版は、麻生総務大臣、石破防衛大臣、安部自民党幹事長などの顔ぶれがそろった第二次小泉内閣が先にあげた有事関連7法案の成立をめざしていたとき、忌野清志郎氏の「地震のあとには戦争がやってくる」のころとほぼ重なる。
 まず2004年5月にウェブ上に公開され、つづいて6月1日に自費出版の冊子版で発行されると2カ月で3万3,000部が売れたという。そして7月に一般書籍として出版されている。有事法案に反対の立場から勉強会をつづけていたグループからうまれた「りぼん・ぷろじぇくと」というネットワークによってつくられた。こういった動きには感動させられるし、この方々には尊敬の念すら覚える。
 冊子版は国会議員全員に配られ、世論調査でも50パーセント以上が反対し大きな反対運動もあったが、2004年6月4日、有事関連7法案は可決、成立した。そして9年後の今年12月6日、安倍首相は国民の情報統制に重要な役割をもつ特定秘密保護法案を可決、成立させた。悲しいかな、事態はこの絵本のシナリオどおりにすすんでいるように思えてしまう。今度こそ「地震の後には戦争がやってくる」のであろうか。

 長らく秘密裏に検討されてきていた有事法制は、冷戦崩壊、ソ連崩壊をへて朝鮮半島有事を念頭に一気に表面化してきた感があるが、そのころはまだ受け身だった。攻撃されたら、侵略されたらというレベルの問題だった。ところがこの数年の動きはどうだろうか。
 2012年4月、東京都知事だった石原慎太郎氏がワシントンでの講演のなかで、中国とのあいだで領有権棚上げ状態にあった尖閣諸島を東京都が買い取る計画を明らかにしたところ、たった4カ月で9万人から14億円もの寄付が集まったことがあった。
 早い話が石原氏は中国に喧嘩を売ったのである。マスメディアも大きくあおり、9万人もの国民がその喧嘩を応援した。しかも、当時の民主党の野田首相は、石原氏を批判することもなくさっさと国有化してしまった。野田氏もまた、好戦的な日本人のひとりかもしれない。
 日本政府は石原氏が売った喧嘩に乗ってこのとき中国を敵と定めたのであり、マスメディアも多くの国民もそれに同調した。中国と話し合って棚上げにもどすべきだという意見もあったが、大きな声にかき消されてしまった。このころから中国を非難する報道、中国の負の部分をことさらあげつらうような報道が、テレビ、新聞、週刊誌上で目立つようになり、まさに敵は中国だと言わんばかり、あたかも政府から指示があったかのごとくである。
 昨年12月、自民党の安倍政権へと移ったが、南西諸島への自衛隊配備など中国の鼻先に銃口を突きつけるような計画がすすめられ、さらに拍車がかかっているようだ。日中関係の悪化がいわれるが、日本側からけしかけているようにしか思えない。
 最近の中国の防空識別圏の設定も日本が売った喧嘩へのお返しにすぎない。もともと日本の防空識別圏はアメリカ(GHQ)が一方的に設定したもので、アメリカも強く抗議できるはずもなく事実上認めるしかなかった。アメリカ、東南アジア各国の航空会社は中国へ飛行計画書を提出しているが、日本の航空会社は一度提出しながらも政府の指示で撤回している。しかも、北方4島はロシア、竹島は韓国の防空識別圏に取り込まれていながら、抗議の相手は尖閣諸島を取り込んだ中国のみというのも分かりにくい。先のASEAN特別首脳会議でも安倍首相の主導で中国包囲網をつくろうとしたが、ASEAN諸国は応じることはなく、日本のひとり騒ぎでおしまいというありさまで、日本の孤立感が増しているようにしか思えない。
 連日のように武器輸出三原則見直し、NSC法、特定秘密保護法、中期防衛力整備計画、共謀罪、国家安全保障戦略、新防衛大綱などの文字が躍る。110年前に木下尚江が書いたままの日本である。数万人規模のデモをやろうが、90歳の老人たちまでがデモに出てこようが、国連の機関やノーベル賞受賞者、憲法学者たちが抗議声明を出そうが、本会議場に靴を投げ込もうが、まったく政治に影響をおよばすことができない。平和憲法をもつ日本が、国会のなかで民主的な手続きを踏みながら、軍備を増強し確実に戦争へと近づいている。
 「何のための戦争なのか、国民はまるで分からない。最初から秘密だったからです」(むのたけじ談『東京新聞』2013年11月28日付)。戦争は国民に相談などせずに、ある日突然始められるものだそうだ。もしや今度の戦争は、戦争が始まったことすらまったく報道されず、気がついたら頭の上を戦闘機がブンブン飛んでいることになるのかもしれない。

 日本国憲法前文には「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とある。われわれは本来なら排除されるべき法令をもちすぎてしまってはいないだろうか。あまりにも日本国憲法をないがしろにしていないだろうか。自民党憲法草案などけっして認めてはならない。もう一度日本国憲法に立ち返らなければならない。必要ならば、憲法に抵触する疑いのある自衛隊のあり方をふくめて検討し直してもよいとは思うが、いまの安倍政権下ではやめたほうが賢明のようだ(安倍首相の靖国神社参拝のニュースが飛び込んできた。12月中旬にもアメリカ側から忠告されていたというが、それを押し切っての参拝だというから、アメリカからの反応も早かった。自滅となるだろうか)。
 今年の5月、安倍政権の動向にいち早く危機を察した「りぼん・ぷろじぇくと」から、新たなメッセージがホームページに掲載されているのを最近になって知った。
  「残念ながらこの本で予言された未来は、着実に現実となりつつあるのではないでしょうか。私たちに残された時間は、
   もうあまりないのかもしれません。
   それでも、まだ道は残されています。私たちが気づき、変えていくことの出来る未来がきっとあります。この国を愛す
   るひとりでも多くの人たちが、『戦争をしない未来を選びとる』ことを、私たちは願ってやみません」
                                        (2013/12)

<2013.12.26>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第15回:靖国参拝をめぐって

 2013年の暮れも押し迫った12月26日、安倍首相は靖国神社に参拝した。中国・韓国にとっては侵略者であるA級戦犯を祀る靖国神社への参拝である。当然ながら両国からの猛烈な反発は織り込み済みで、正面から喧嘩を売ったということである。
 これに先立つ11月12日、小泉純一郎元首相は日本記者クラブで「私が首相を辞めたあと、(首相は)一人も参拝しないが、日中問題はうまくいっているか。外国の首脳で靖国参拝を批判するのは中国、韓国以外いない。批判する方が今でもおかしいと思っている」と発言している。安倍首相の今回の参拝に際して、小泉氏から激励のようなものがあったとしても不思議ではない。
 一般的な感覚からすれば、相手が嫌がることを知っていてなぜわざわざということになるが、首相官邸ホームページに「中国、韓国の人びとの気持ちを傷つけるつもりは、全くありません」という談話を発表している。この言い分が世間で通用するものではないことは、だれにでも分かることだろう。傷つけるつもりがないのなら行かないはずである。これに加えて菅官房長官の「内閣総理大臣たる私人としての安倍晋三というかたち」だという会見での説明も意味不明で、一般に通用するものではない。少なくとも、休日に議員バッジをはずしての参拝ではなかったことはたしかだ。

 安倍首相はかねてより靖国参拝に意欲を燃やしていたといわれる。したがって、中国・韓国を刺激することを懸念したアメリカは安倍首相に何度も警告していた。
 5月に訪米した安倍首相は、外交専門誌『フォーリンアフェアーズ(Foreign Affairs)』の取材にこたえて、アメリカのアーリントン国立墓地を引き合いに出して「靖国神社は国のために命をささげた人々を慰霊する施設であり、日本の指導者が参拝するのは極めて自然で、世界のどの国でも行っていることだ」と述べている。これを否定するように10月3日、来日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に献花し、「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じように戦没者に哀悼の意を示した」と述べた。靖国神社は遺族の意向も考慮なく一方的に祀る神社本庁には属さない神道施設であり、アーリントン国立墓地はどんな宗教をも受け入れ、遺族が希望しない埋葬は行っていない。
 11月中旬、衛藤首相補佐官が安倍首相の靖国参拝をめぐる協議のために訪米した際のアメリカ側からの反応は、「オバマ大統領が理解を示すことはない」「参拝すれば日米関係を害するだろう」「日本の評判を落とし、日本のアジアにおける影響力低下を招く」など、否定的なものばかりだったという。
 12月上旬、アメリカのバイデン副大統領は緊張緩和仲介のために日本・中国・韓国を訪問した。日本では安倍首相とも会談している。帰国後の12日、安倍首相に電話をかけ「靖国参拝だけはしないように」と釘を刺したという。もしこれが事実ならアメリカの警告を無視しての参拝であり、確信犯ということになる。
 参拝後の中国や韓国の反発は当然だったが、アメリカの反応も早かった。26日当日、アメリカ大使館は「日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」というプレスリリースを出した。翌日、これと同内容の声明が国務省からも発表された。アメリカ政府から日本の首相に対する公式文書での批判は初めてのことらしい。元外交官で京都産業大学教授の東郷和彦氏は「同盟国に対して『失望した』と言うことの恐ろしさを知ってほしい。外交の世界で同盟国にこんなにはっきり言うのは異例だ」と述べている(『朝日新聞』2013年12月29日付)。
 小泉氏が靖国参拝をしたころとは政治情況が大きく変容しているのである。小泉氏も首相時代(2001年4月〜06年9月)に中国・韓国に対して挑発的な言動を繰り返していたが、2012年の石原慎太郎氏の尖閣諸島購入発言以降日本側の暴走が始まり、中国・韓国側の反発はより強まってきていた。そしてアメリカが仲介に入って収めようとしているところでの参拝だった。アメリカ側もさぞかし落胆したことと思われる。安倍首相の「中国や韓国にもていねいに説明していきたい」(2014年1月6日)という言葉など、まったく空気の読めていないものでしかなかった。

 非難声明は中国・韓国・アメリカだけで済んだわけではなかった。台湾やロシア、イギリス、フランス、EU、オーストラリア、国連事務総長も声明を発表した。国連安保理常任理事国すべてがふくまれることになる。小泉氏の言った中国・韓国どころか、第二次世界大戦の戦勝国を敵にまわした形になってしまった。安倍首相にとっては、とくにヨーロッパの反発の大きさは予想外だったのではないだろうか。
 ヨーロッパでは靖国神社参拝をどう受け止めたのか。スイスで生まれ育ったというタレントの春香クリスティーンさんが、出演したテレビの情報番組で「海外でよくこの問題と比べられるのが、もしもドイツの首相がヒトラーの墓に墓参りをした場合ほかの国はどう思うのかという論点で議論されるわけですが……まぁ難しい問題ですよね」と発言したところ、彼女のブログには「謝罪しろ」「ヒトラーと同列に扱うとは失礼にもほどがある」「歴史認識不足だ」などの抗議や批判が殺到し炎上したという。
 しかしながら、「もしベルリンにヒットラー以下の全ドイツ将兵を祀った大聖堂があり、そこにメルケル首相が花束を供えてぬかづいたら、大方の欧米人は平静でいられるでしょうか? 靖国神社は日本人には清らかな存在でも、欧米人にとっては不気味な存在であることを理解すべきです」といった、春香クリスティーンさんを応援するようなツィートも少なくない。これが世界のニュートラルな意見と受け止めてよいのではないかと思う。
 ベルリン在住のジャーナリスト・梶村太一郎氏のブログ(「明日うらしま」)には、「世界中の報道で安倍氏の靖国参拝に理解を示す、あるいはそれを支持する報道は、虫メガネで捜してもひとつもありません。あるのは日本の産経と読売など安倍政権翼賛メディアだけなのです」「ある政権を批判する欧米のメディアが、歴史修正主義という表現を使ったときは、その政権は相手にできない落第の烙印を押されたことと同様であるということです」といった厳しい言葉が頻出する。梶村氏のブログにある「世界中があきれ懸念する安倍内閣と日本社会の〈靖国引きこもり症〉という病氣」と題する重い内容の論考を、ぜひご一読いただきたい。1月12日で5回までの連載となっているようだ。
 日本と同じ枢軸国、ドイツのメルケル首相は積極的にはコメントしなかった。触れたくなかったにちがいない。報道官が記者からの質問にこたえ、「日本の内政に関してコメントしたくない」と前置きしたうえで「一般論として、すべての国は20世紀の災厄におけるみずからの役割について、ふさわしい行動を誠意をもってとるべきだ」と、明らかに批判的に述べた。
 海外のマスコミからの反響もすさまじかった。なかでも『ニューヨーク・タイムズ』の「Risky Nationalism In Japan [日本の危険なナショナリズム]」と題した社説は手厳しい。
 「安倍氏とそのサポーターにとって問題は、ヒロヒト天皇もアキヒト天皇も参拝を拒否していることだ。安倍氏の究極目標は憲法を書きかえることだが、アキヒト天皇は政治的な権限がないにもかかわらず承認していない。先日の80歳の誕生日で彼は〈平和と民主主義というかけがえない価値〉を守る戦後憲法をつくった人々に感謝のことばを述べている」

 このような指摘は国内でもたびたびなされているのだが、これに対する安倍首相自身、あるいは政府の見解は明らかにされたことがない。そして、靖国神社ではなく千鳥ヶ淵戦没者墓苑への参拝ではいけない理由も明らかにされたことがない。もっとも千鳥ヶ淵戦没者墓苑、靖国神社の双方に出かけても意味がないのだが。ただ安倍首相は、新たな施設をつくることは明確に拒否している。
 年が明けてもまだ続く。2014年元日、新藤総務相が靖国神社へ参拝した。批判がおさまらないなか、火に油を注ぐような参拝だったが、硫黄島で戦死した栗林中将の孫というから確信犯的なものだ。「日本はこういう国だ」と世界に向けてダメ押しした格好となった。
 さらに1月4日、小野寺防衛大臣とヘーゲル国防長官の電話協議があった。これは昨年暮れに予定されていながら、安倍首相の靖国参拝の影響で延期されていたものだった。小野寺防衛相は、安倍首相の真意はあくまでも不戦の誓いであって近隣諸国との関係悪化は望まないということだと説明して理解を求め、それに対してヘーゲル国防長官からのコメントはなかったというニュースが流れた。ところがこの日本の報道にアメリカ国防総省が反発し、安倍首相の靖国参拝について「日本が近隣諸国との関係改善に向けて行動するとともに、地域の平和と安全のために協力を進めることが重要だ」との声明を発表し、小野寺防衛相は外遊先のインドで記者からの質問に答え、ヘーゲル国防長官から言及があったことを認めた。なんともお粗末な話だが、どうにかしてアメリカからの反発を隠したかったように見受けられる。

 あくまでも日本政府は強気である。菅官房長官は1月3日付の『読売新聞』でのインタビューで「日本の立場を捨ててまで韓国や中国と首脳会談を行う必要はない」と開き直っている。まさに「強い国」日本の政府高官による、世界の眼を意識におかない発言で、自分たちは正しい、間違ってはいないという姿勢は戦前の日本そのままのようでもある。
 石原慎太郎氏は、2011年6月20日に憲政記念館で行われた講演で、「日本は核を持たなきゃだめですよ。核を持たなきゃ一人前に扱われない」「日本が生きていく道は軍事政権を作ること」「徴兵制もやったらいい」といった発言をしている。安倍首相の考えは石原慎太郎氏とまったく同じとまでは言うつもりはないが、かなり近いものに思える。
 共同通信による2013年暮れの世論調査では、安倍内閣の支持率は55.2パーセントとけっして低くはないのだが、世界は安倍首相の危険性を見抜いている。いまの日本は病んでいる。安倍政権の目指す方向は、世界の多くの国が目指す方向に逆行しているようだ。1933年(昭和8年)3月、日本は国際連盟に脱退を通告したが、いままたサンフランシスコ講和条約の破棄を通告し、同じ道を歩むことのないように祈るのみである。
 1月19日の沖縄県名護市長選挙では辺野古移設反対派の現職稲嶺氏が、福島県南相馬市長選挙では脱原発派の現職桜井氏が、どうにか信任を得ることができた。続いて2月9日の東京都知事選挙、そして山口県知事選挙でも自民党系候補を破ることによって安部自民党政権をうろたえさせ、暴走を食い止めなければならない。迫り来るファシズムとの闘いである。

  *梶村太一郎氏のブログ「明日うらしま」
http://tkajimura.blogspot.jp/2013/12/blog-post_28.html
                                                                           (2014/01)

<2014.1.21>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第16回:東京都知事選挙、脱原発派の分裂

 2月9日に投開票が行われた東京都知事選挙は、舛添要一氏の圧勝で終わった。ぼくが投票のために近所の小学校に行ったのが9時半過ぎだった。前日の大雪が影響したとも思えないが、あまりにも閑散とした校庭の風景に驚き、さらに体育館のなかに入って愕然とした。投票に来ている人は12〜13人、しかもあとから続々来るでもない。これは相当まずいなと思ったが、やはり投票率はわずか46.14%という惨憺たる結果となった。過去3番目の低さだという。
 今回は全国区の選挙ではないのだが、『東京新聞』は投票日の朝刊に「国政左右 岐路の一票」と見出しをつけた。これはたんに安倍政権が維持し続けようとしている原発のみならず、国を危うい方向へと導きつつある舵を正すべき選挙だった。そんな重要な位置づけにあった選挙だが、結果は自民党、公明党、連合が支援した舛添氏が200万票をこえる票を得て、事実上安倍政権を信任するという結果に終わった。

 今回の都知事選の報道では、舛添氏が原発推進派、宇都宮健児氏、細川護熙氏が脱原発派と色分けされた。このまま争えば宇都宮氏と細川氏で脱原発支持の票が分散して共倒れとなり、舛添氏の当選は明らかだった。ただ、同じ脱原発派でも両者の危機感には大きな違いがあった。宇都宮氏は2012年に続いての立候補で、前回の政策に原発問題を組み入れての数十年を要する脱原発である。他方細川氏は、地震多発国には不向きな原発を基幹電源とするエネルギー政策の、即時転換を政府に求めるものだった。
 鎌田慧氏、広瀬隆氏、河合弘之弁護士らは脱原発派候補一本化の必要に迫られ、告示日直前の1月20日に記者会見を開いた。その一本化とは、舛添氏を抑えるためには細川氏で一本化し、左派からリベラル保守層まで幅ひろく票を取り込むというものである。逆に宇都宮氏で一本化した場合、細川氏に入るはずだった票がそのまま左派の宇都宮氏に入るとは考えにくく、半分は舛添氏に流れてしまうと予想された。
 本来なら、鎌田氏たちはもっと早くから両陣営と接触して候補者を一本化しなくてはならなかった。そして細川氏には、降りてもらう宇都宮氏に頭を下げてお願いしてもらう必要があった。しかしながら、なかなかそのようには運ばなかったのである。
 両陣営ともに一本化を拒否した。細川陣営は準備不足や選対本部の内紛の処理に手間取り、鎌田氏たちの声に耳を傾ける余裕もなかったのかもしれない。当然のように佐川急便からの献金疑惑が再浮上したが、元自民党参議院議員村上正邦氏がでっち上げだったことを暴露して、あっという間に落着した。80歳になる村上氏の潔さは、老い先短い人生を意識してのものであろうか。他方、宇都宮氏の先の都知事選時の公職選挙法違反の告発で知られたブログ「澤藤統一郎の憲法日記」によれば、宇都宮陣営は全国から共産党の運動員を集めて組織的に展開したというから、この時点で宇都宮が降りるという選択肢などあり得なかったとも考えられる。

 1月末になってとんでもない話が表面化したてきた。
 宇都宮氏をふくむ3人で協議して落合恵子氏に出馬要請したにもかかわらず、落合氏の返事を待たずに宇都宮氏が抜け駆けで出馬表明したという話である。これについて落合氏は2月3日の会見で、はじめから出馬するつもりはまったくなかった、わたしが出るなら宇都宮さんは降りると聞いていたなどと答えているが、宇都宮氏は1月30日のインタビューで落合氏が断ったから出馬したとは語らず、ほかにも両氏の発言には食い違う部分があって真実がどこにあるのか分からない。もし落合氏が出馬していたなら、宇都宮氏、細川氏とも出ることもなく、落合氏の当選ということがあったかもしれないのだ。
 さらに1月30日、宇都宮氏を支持するジャーナリスト岩上安身氏がツイッターで次のように発信した。すべて同日に行われたインタビューをツイッターにしたものである。
 「ヤミ金など、消費者問題に一緒に取り組んできた仲間の弁護士が、自宅に押し入られた暴漢に家族の前で刺殺されている。オウムによって殺された坂本弁護士の妻は宇都宮氏の事務所で4年間働いていた。自分の仲間をそうやってテロで失ってきた痛切な経験が宇都宮氏には、ある。
 『自分は覚悟ができているが、家族に手を出されることだけは……だから、家は防犯のため、セコムにも入っています』と語る宇都宮氏。しかし告示日前日の深夜12時に、自宅まで押しかけてきた人物がいた。連日、選対事務所に『一本化しろ』『降りろ』といった電話が鳴り止まない時期。
 真夜中に自宅まで押しかけてきたその人物は、細川氏に票を集めるため、宇都宮氏に降りるように迫ったという。非常識極まりない。この話をした時には、温厚な宇都宮氏が顔を真っ赤にして怒りを露わにした。ご家族も『深夜の訪問者』に怯えたという。異常である。
 『細川氏の選対に入って汗をかくわけでもなく、人に降りろと迫る。細川氏が裏切った時には、どう責任を取るのか。無責任だ』。宇都宮氏は、怒りを隠さなかった。
 真夜中に自宅に押しかけた方も有名人。お名前は控えますが。我を忘れている感拭えず」

 このツイッターを見た翌日の1月31日、細川氏を応援する有志による記者会見があった。細川氏をはさんで瀬戸内寂聴、澤地久枝、湯川れい子、菅原文太、なかにし礼、三枝成彰の各氏が並んだ。ぼくは澤地氏のスピーチに仰天してしまった。
 1月21日の夜遅く、こんな時間ならいるだろうと宇都宮氏の家を、だれにも相談もせずたったひとりで訪ねたこと。雨が降っていて、それが雪に変わって本当に寒い夜だったこと。ただただ後悔しないようにとの思いで訪ねたこと。宇都宮氏と話し合って一本化は難しいだろうかとお願いしたこと。でも、細川氏のほうからは何も話が来ていないから難しいという返事をもらったこと。暗い知らない町をひとりで歩きながら、自分はやることはやった、細川さんのために応援しようと決心したことなどを切々と話した。
 心に訴える素晴らしいスピーチだった。しかしながらこのスピーチを聞きながら、岩上、宇都宮両氏の腹にある黒々としたものに気づいた。先の宇都宮氏へのインタビューが動画でもみられるというので確認したところ、宇都宮氏のすっきりしないところがみえてくる。
 2012年の都知事選で澤地氏は宇都宮氏の支持者として積極的に動いていて知らない間柄ではないが、インタビューでは名前が伏せられている。しかも澤地氏は83歳になる病身のおばあさんである。宇都宮氏は「家内もびっくりしていた」とは言っているが、怯えたとまでは言ってはおらず、岩上氏のツイッターは相当脚色されていることが分かる。岩上氏はその人物が澤地氏であることを知っていながら、さも恐ろしい暴漢に仕立て上げてツイッターを発信している。澤地氏が伏せられたままであることが前提でなければ書けた内容ではない。また宇都宮氏は「まるで嫌がらせとしか思えないですよ!」と吐き捨てるように言い放っているが、明らかに言いすぎである。たしかに深夜の突然の訪問は失礼ではあろうが、澤地氏の行動も理解できないことはないはずで、もっとその気持ちを汲んであげることはできないものか。岩上、宇都宮両氏にとって細川支持に回った澤地氏は明らかに敵であり、おとしめてやろうという意図がありありとうかがえるツイッターでありインタビューだった。
 おそらく澤地氏はそんなツイッターや動画が出回っていることなどまったく知らず、堂々と明かしてしまった。両氏にとっては予想外のことで、非常に気まずい情況に追い込まれることになった。以後、岩上氏も宇都宮氏もこの件については口をつぐんでいる。

 結局鎌田氏たちは一本化に失敗したが、それで諦められるものではない。2月3日、告示後にもかかわらず、前回とは別の会の名称で両陣営にはたらきかけの記者会見を行った。1月20日の会見と重なるのは鎌田氏と河合氏だけで、ずっと中心となってきた鎌田氏は憔悴しきった表情で座っていた。別の会になった意味について鎌田氏は「支持者を明らかにしていない人に来てもらった」と説明した。宇都宮氏側に配慮したということだろうか。
 すでに1月23日に告示されているので、いまさら立候補を取り下げることはできず、事実上一本化は不可能である。にもかかわらずこのような会見を開いたのは、降りた側の候補が、自分の支持者に対してもう一方の候補への投票を呼びかけるという形での一本化をお願いするためだった。無理は承知のうえ、最後までどうにかしたいという悲痛な思いからの会見だった。
 席上、99歳になるむのたけじ氏は、「争われるのは都知事のイスひとつだが、そこに込められた時代の問いかけは、第三次世界大戦、原子爆弾の乱れ飛ぶ世界を許すのかどうかだ。大事な大事な別れ道だ」と声を張り上げた。一本化最後の試みも失敗し、河合弁護士が2月6日にその報告を行ったが、そのときの発言を整理したものを記す。
「重要なのは保守政治家から脱原発の声があがったという歴史的転換点にいるという認識。誤解を覚悟で言えば、新自由主義者でさえも脱原発を言いだしたということがスゴイことだと……、そういう大きな捉え方をすべきだと思っている。それがいかに重要なことなのか、左翼や人権派といわれた人たちは歴史に学んでいない。そんな千載一遇のチャンスが天から降ってきたのに、いざ目の前にすると勝つことを忘れた闘争者のように不統一な運動を展開する人たちがいる。そんな大局観のない運動が今回の分裂を招いた。宇都宮さんは脱原発を3番目か4番目に上げて他の課題もあるというが、いまの福島の現況をみれば大事故が起これば老人の福祉とか雇用・教育などと言っていられなくなるのが分かる。細川さんは脱原発を最重要課題と位置付ける。優先順位が違う」

 ついでに鎌田氏の、宇都宮陣営を仕切る共産党への怒りも記しておく。「戦争に向かおうとしている、この危機的な状況にもかかわらず、広く手を結んで共同行動に立ち上がらず、あれこれ批判を繰り返している人たちに訴えたい。いったい敵は誰なのか、と」(『東京新聞』1月28日付)。ターゲットが舛添氏であることを忘れた宇都宮陣営による、細川、小泉攻撃にはすさまじいものがあった。選挙後、宇都宮氏は「元首相連合に勝った。達成感がある」と述べ、支援者とともに勝利の喜びに沸いたという。やはりそうかと頷くしかなかった。宇都宮陣営の選挙運動は、先の衆・参両院議員選挙に続く共産党の党勢拡大が目標で、いまの日本の危機をどうにかといったものではなかった。細川氏を破ればそれで満足なのである。
 残念ながら、鎌田氏らが訴えた危機感はひろく理解されないままに終わった。報道では細川氏の街宣演説が「弱々しい」「力がない」、また「小泉氏目当てに集まった多くの聴衆」とか表現されていたが、それは否定しておきたい。たしかにヒトラーのような演説とはまったく異なるものだが、いまの日本の危機をゆっくり張りのある声で語りかけていて、聴衆は耳を澄ませてじっと聞き入っていたのである。けっして主役は小泉氏ではなかった。
 細川氏はほとんどの討論を拒否したうえ、テレビもうまく利用することができなかった。かつて佐藤栄作元首相が記者会見場から新聞記者を追い出してテレビカメラだけに向かって語りかけたこと思い起こしたが、細川氏のスピーチにはマスメディア全般への不信感が深くにじみ出ていた。また舛添、宇都宮両陣営の選挙運動が大きな組織をバックにしたプロのものだとしたら、細川陣営は素人のものだったことは否定できない。
 ぼくはこれまで自民党にも民主党にも票を投じたことはなかったし、先の都知事選は宇都宮氏に投票した。しかし今回は大局を読み細川氏に投じたのだが、むなしい結果に終わった。
 茨城県東海村の村上達也前村長は「(都民は)平和憲法の精神を壊そうとする安倍政権を支持した。東京が日本を駄目にしていく」と嘆いた(『東京新聞』2014年2月11日付)。まさに河合弁護士の言うとおり、千載一遇のチャンスを逃したのである。3.11以前の日本に、いや戦前の日本に戻るのだろうか。国際的な孤立、そして狂気の時代に突き進む。いや、そうなる前に安倍首相は行き詰まり、自滅することを期待したい。 (2014/02)


<2014.2.19>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第17回:沖縄の闘い

 昨年の暮れ、安倍首相の靖国神社参拝でテレビや新聞が大騒ぎとなった翌日、沖縄では大きな動きがあった。それは、あたかも靖国参拝と示し合わせたかのようにも思えた。
 12月27日、沖縄県の仲井真弘多[ひろかず]知事は、米軍普天間基地移設にともなって日本政府が沖縄県に申請していた、名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認したのである。
 なにも年末に慌ただしく結論を出さなくてはならないはずのものではなかった。明けて1月19日に行われる名護市長選挙の結果を待ってからでもよかったはずなのだが、政府にとってはそれでは都合が悪かったようだ。
 名護市長選では移設反対派の現職、稲嶺進氏が再選される可能性が大きく、それが知事の判断に影響をおよぼすことを恐れ年内の結論を迫ったようである。官邸筋が知事に金を掴ませたとか、仲井真知事の徳洲会がらみの献金疑惑をネタに脅したとか、いくつか噂もあったが、どれも嘘か真か分からないような話でしかなかった。
 そもそも仲井真氏は、2010年11月の知事選挙告示直前に移設容認から反対に転じ、反対派の伊波洋一氏を抑えて当選した人物である。以来、ぼくにとって仲井真知事は油断のならない人物となった。しかしながら、ご本人は問われるごとに「県外移設」と答えているようなので、「頑張れ!」と少しは応援していたのだが、やはり最後には見事に裏切ってくれた。
 承認を表明する2日前の25日、仲井真知事は安倍首相から提示された沖縄振興策について、「驚くべき立派な内容を示してくれた。お礼を申し上げる」と大歓迎の様子をテレビカメラの前でみせてくれた。したがって承認のニュースを見ても、「やっぱりか……」と思う程度のものだったが、それでも大きな節目となる大事な結論には変わりはない。
 それにしても、前日の安倍首相の靖国参拝に続いての埋め立て承認と、騒がしい年末にうんざりした気分になった。かわいそうなのは沖縄の人々で、それからは連日、抗議集会の年の暮れと化した。

 そんな騒ぎを引きずったまま2014年は明けた。沖縄では名護市長選挙をひかえて慌ただしさを増してきていた8日、海外から突然朗報がもたらされた。
 仲井真知事の埋め立て申請承認と安倍政権の辺野古埋め立て着手の方針に対して、哲学者ノーム・チョムスキー氏、映画監督オリバー・ストーン氏など、アメリカ、カナダ、オーストラリアやヨーロッパの有識者たち29人が、「沖縄への新たな基地建設に反対し、平和と尊厳、人権、環境保護のために闘う県民を支持する」という声明を発表した。
 賛同に名を連ねたオリバー・ストーン、歴史家のピーター・カズニック両氏は、昨年8月、辺野古の反対派座り込みテントを訪れていたが、両氏と固い握手を交わした91歳の老人は、「我々との約束を守ってくれた。アッサミヨー[ありがとう]」と声をあげた(『琉球新報』2014年1月9日付)。その後、1月30日付『沖縄タイムス』によると、海外賛同著名人は103人にのぼったという。これは名護市長再選を目指す移設反対派の稲嶺氏にとっては強い追い風となった。
 そして1月19日の投票日を迎えた。午後8時になると同時に、テレビ画面上部に速報で稲嶺氏の当選確実が流れた。地方の市長選挙でのこういった速報は異例のことだろう。ぼくは思わずホッとした。自民党の石破幹事長は「基地の場所は政府が決める」と発言したうえ、地域振興に向けて500億円の基金を表明していたが、すべて裏目に出て有権者の反発を買ったようだ。名護の人々の心を金で買うことはできなかった。そもそも政府の人間ではない石破幹事長が、政府の立場でものを言うことが勘違いもはなはだしい。

 地元が移設反対の意思表示をしたのだから、これで容易には埋め立て工事の着工はできないだろうとホッとしたのも束の間、市長選のわずか2日後、沖縄防衛局は辺野古移設に向けて、代替施設の設計などの受注業者を募る入札を公告した。同時に安倍首相は「移設は基本計画にのっとってすすめていきたい」と語り、移設計画強行という強い意思を表明した。
 これに対し稲嶺市長は、「これだけの反対意見を無視して、強硬に進めるのは地方自治の侵害だ。民主主義でそんなことができるのか」と憤慨した。さらに、琉球新報の潮平芳和氏による「民主主義よ、死ぬな」という投稿がネット上に拡散していった。その末尾にはこうある。「沖縄から訴えたい。この国(日本)の民主主義よ、死ぬな。米国の民主主義よ、世界の民主主義よ、死ぬな」。胸を打つ言葉たちは英訳されて世界にひろまった。日本の民主主義はことごとく破壊され、沖縄だけにかろうじてその片鱗が残されたような感もある。
 3月7日付の『東京新聞』によると、稲嶺市長は十数人の弁護士からなる私的諮問機関「名護市長懇話会」を立ち上げ、市長権限の洗い出しに取りかかっている。ボーリング調査船の漁港使用、市有地での土砂採取や護岸工事の許可を出さないといったものが考えられるが、可能な限り抵抗する構えだ。それに対して、国や県は市の権限代行まで検討していて、そのために必要な新たな特別措置法の制定も選択肢に入れているという。
 ついでだが、名護市長選挙と同日に行われた福島県南相馬市長選挙では、原発事故に対する国や東電の責任を追及してきた現職の桜井勝延氏が再選され、こちらも市民の良識を示してくれた。その後桜井氏は、東京都知事選挙の際には細川護煕氏の応援に登場し、銀座4丁目の2万人の聴衆に感動的なスピーチを聞かせてくれた。

 そして、沖縄だけで報道された重要なニュースがあった。1月31日付『沖縄タイムス』によると、アメリカを訪問した沖縄選出の糸数慶子参議院議員(沖縄社会大衆党委員長)ら「辺野古新基地建設に反対する議員要請団」は、28日、ジム・ウェッブ元上院議員と会談したが、ウェッブ氏は「辺野古案は不要だ」と述べたうえで、「沖縄の人々に公平な解決をもたらすために、私が(米政府や議会との)橋渡し役になる」と協力を申し出たという。ウェッブ氏はグアムや沖縄をよく知る元海軍長官で、海兵隊からも信頼が厚く、「アジア太平洋政策を最も熟知する人物」(レビン上院軍事委員長)と評され、辺野古移設と在沖米海兵隊のグアム移転計画の見直しを盛り込んだ米国防権限法案を立案している。
 そのあと、ワシントンで糸数議員とともに記者会見にのぞんだピーター・カズニック氏は、「声明の賛同者は100人を超えた。沖縄の人々とさらに連携し、日米両政府が辺野古計画を中止するまで国際社会へ強く訴えていきたい」と強調した。このような記事は大手全国紙に掲載されることはなく、多くの国民は知ることはない。
 2月12日、稲嶺名護市長は沖縄を訪問したケネディ大使と面会し、大統領宛の移設反対の伝言を託した。大使のほうからは移設に応じるようにという要請はなかったという。さらに17日、稲嶺市長は東京の外国人記者クラブで会見を開き、「辺野古に強行しようということは選挙(反対派の私を選んだ名護市長選)の結果、民意を否定すること。民主主義にあってはならないこと」「世界各国からメディアのみなさんがおいでだと思います。民主主義のあり方について、あるべき姿についてぜひ議論を展開し、沖縄・名護の問題についても立ち向かってもらいたい」と訴え、多くの記者たちの賛同を得たという(『日刊ゲンダイ』2014年2月14日付)。また4月には、2012年に引き続き訪米して訴えるともいう。
 『琉球新報』『沖縄タイムス』の2紙は、先のケネディ大使の沖縄訪問にあわせ、英文の社説でもって稲嶺氏の動きに歩調をそろえたが、こちらはテレビや新聞でも大きく報じられた。

 このようなアメリカに直接訴えるという行動は以前から行ってきているもので、ほかに寄付を募ってアメリカの新聞に全面広告を出す「沖縄意見広告運動」もあって、こちらにはぼくもちょっぴり協力している。まだまだ目に見える反応があるわけではないが、今後も継続して行っていく必要がある。
 辺野古の問題に限らず、沖縄その他の米軍基地問題全体にいえることだが、日本政府にいくら訴えたところで解決する見込みはほとんどなく、時間と労力の無駄である。アメリカと直接交渉するしかない。沖縄県の場合は、アメリカと直接外交交渉のできる知事、あるいは全権特使を立てる必要があるし、ワシントンに沖縄県事務所を置くことも考えてもよいだろう。事務所を拠点として、沖縄のことなどほとんど知らないアメリカの政治家、市民たちに、あまりにも理不尽な現状を伝える必要がある。それはアメリカのみならず、ひろくヨーロッパ諸国をはじめ世界に訴え、いずれは日米地位協定の大幅改定まで漕ぎ着けなくてはならない。そして最終的には、日本に基地を置いても何もメリットがないとまでアメリカに認識させたいところである。長い闘いになることは間違いがない。
 もっともこれらを実現するためには、アメリカ、中国が歩み寄ることが手っ取り早い解決方法のはずだ。互いに譲歩をともなう新たな米中関係、枠組みによって東アジア、南シナ海の緊張状態がなくなれば、日本にある米軍基地など無用となるはずのものである。当然ではあるが、いま安倍政権が推し進めようとしている集団的自衛権など霧と化してしまうはずだ。

 仲井真沖縄県知事に対する県議会からの辞任要求決議は1月10日になされているのだが、なかなか辞任という動きもみえず、リコールはどうかと思って調べてみた。市町村長レベルのリコールならともかく、県知事となると沖縄県知事でも20万を超える署名が必要でなかなか困難なことらしく、日本では知事のリコールは一度も行われたことがないという。
 岡留安則氏の「東京・沖縄・アジア幻視行」(2月24日付)をのぞいてみたところ、沖縄県議会百条委員会での仲井真知事への追及について触れていて、「埋め立て承認後の仲井真知事はもはや精彩もなく、抜け殻のようで知事職を続ける能力があるとは思えない」と記している。もしかすると、沖縄県知事選挙は予定よりも早まる可能性もありそうだ。 (2014/03)

<2014.3.18>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第18回:あの日から3年過ぎて

 あの日から3年が過ぎた。2014年3月11日、政府主催による東日本大震災三周年追悼式が行われた。国歌斉唱のあと、安倍内閣総理大臣による式辞、天皇陛下のお言葉、伊吹文明衆議院議長、山崎政明参議院議長、竹崎博允最高裁判所長官らの追悼の辞、被災3県の遺族代表らの言葉が続いた。そのなかでも注目されたのが、伊吹衆議院議長の追悼の辞だった。伊吹氏は原発事故に触れて次のように述べた。
 「電力を湯水の如く使い、物質的に快適な生活を当然のように送っていた我々一人一人の責任を、すべて福島の被災者の方々に負わせてしまったのではないかという気持ちだけは持ち続けなければなりません。(中略)科学技術の進歩により、私たちの暮らしは確かに豊かになりましたが、他方で、人間が自然を支配できるという驕りが生じたのではないでしょうか。そのことが、核兵器による悲劇を生み、福島の原発事故を生んだのだと思います。3年目の3.11を迎えるに際し、私たち一人一人が、電力は無尽蔵に使えるものとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、日本人として言行一致の姿勢で、省エネルギーと省電力の暮らしに舵を切らねばなりません」
 衆議院議長である伊吹氏は会派離脱中とはいえ、自民党所属議員である。にもかかわらず、全国民が見守っている追悼式典の場において、原発推進を明らかにしている安倍政権とは一線を画すことを宣言したのである。
 同日付『共同通信ニュース』Web版は、「首相周辺から不快感が出ている」と報じているが、この意味は小さくない。マスメディアのルールでは「首相周辺」とは首相秘書官を指す。首相秘書官が共同通信を使って伊吹氏に同調する党内の動きを牽制したということのようだ。
 伊吹氏は1994年6月、自社さ連立政権発足の際、社会党委員長村山富市氏の首班指名に造反したことがあった。ここぞと言うときには信念を通す人なのかもしれないが、原発に関しては、あの追悼の辞だけで終わらせてほしくないと思う。
 話は少々それる。村山富市氏が2月12日に韓国国会で演説した際の舞台裏を毎日新聞がコラムで書いていた。村山氏はこの演説内容について、訪韓前に首相官邸、韓国側双方を納得させたうえで韓国に向かったという。ぼくはこれまで村山氏をとくに評価したことはなかったが、なかなかしたたかな政治家と見直した。もう一度表舞台に立ち、安倍政権をとっちめてほしいところである。

 さて民主党野田政権は、2030年代という遠い将来の原発依存度ゼロを目標に設定したが、第二次安倍政権はその目標値をゼロベースでの見直しを宣言した。「原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立」というのが2012年11月に示した自民党の政権公約だったが、大きく後退することになる。そして2013年9月には、世界が注目するIOC総会でのスピーチで「私が安全を保証します。状況はコントロールされています。健康に対する問題はない。今までも、現在も、これからもない」と自信たっぷりに言い切った。
 しかしながら当の原発は、原子炉冷却作業のために出る汚染水の垂れ流しに等しい状態で、発表されるデータのごまかしは当たり前、ここにきて放射性物質を取り除くALPSも稼働できなくなっている。また、子どもの甲状腺がんについては100万人にひとりかふたりといわれるなかで、福島県では検査をうけた27万人のうち33人が甲状腺がんと判明して摘出手術まで終えていた(2013年12月現在)。
 この甲状腺がんについて福島県の第三者委員会は「原発事故の影響は考えにくい」としているが、否定とする根拠は薄い。松本市長で甲状腺専門医の菅谷昭氏は「否定するのではなく、もっと慎重に考えるべき」と述べるとともに、軽度の汚染地域での低線量被曝によっても将来さまざまな症状が出てくることが予測され、ベラルーシでは身体の抵抗力が落ちた子どもが増加してきたという。「ただちに健康に影響はない」かもしれないが、やがて健康がむしばまれてくるのは事実のようだ。
 海外のメディアも安倍首相の発言には注目したようだ。事故から3年をへた福島第一原発の現状を、ドイツやフランスのテレビ局が入念な取材によって番組をつくり放映してくれた。動画サイトにもアップされ世界中の人が見られるようになっていて、日本語訳までついている。

 国は原発事故など終わったことにしたいらしい。多少汚染された土地であっても、除染しながら被爆の影響を最小限に抑えつつ住民たちに住み続けてもらうことを望む。避難した住民には早く帰還してもらい、避難の支援費用や賠償を抑えたい。そのためには少々放射線量が高くともやむを得ない、安全よりも経済、自治体の維持が優先なのだ。
 2014年1月1日付、4月3日付『東京新聞』では、国や自治体がすすめる「リスクコミュニケーション」について紹介された。「福島ステークホルダー調整協議会」「福島のエートス」や、飯舘村の「健康リスクコミュニケーション推進委員会」などの団体があげられている。講演会や車座集会、かわら版などを用いて、放射能汚染の影響を軽くみせて、不安に思う住民たちに「安心神話」を押しつけようというものである。
 そこには、「福島はチェルノブイリとは爆発の規模が全然違う。だから心配ない。被曝した放射線量は勝負にならないぐらい小さい」「放射能を気にしすぎたら、かえってストレスで体が悪くなる」「みんな放射能に振り回され、疲れ切っている。いま必要なのは安心できる言葉だ」などのフレーズが並ぶ。
 これはチェルノブイリ事故後のベラルーシで行われた「エートス・プロジェクト」にならったものだというが、汚染地域に住み続けることを前提としているため、かえって健康被害がひろまったという批判もあった。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教は、「彼らは『リスクコミュニケーション』という言葉をよく使うが、『事故による健康被害はない』と言葉巧みに言い含めるだけ。リスコミではなく、あれはスリコミだ」と皮肉っている。
 4月2日付『朝日新聞』web版に「福島県民、がん増加確認できず 国連の原発事故報告」という見出しがあった。福島第一原発事故の健康への影響を分析した国連科学委員会報告書の全容が分かったというもので、原発30キロ圏内にいた当時の1歳児に限っては甲状腺がんの増加の可能性があるが、福島県民全体的にみて、がんの増加は確認できないという内容である。国連科学委員会について、記事中では「原発事故に関する報告書では国際的に最も信頼されている」としているところが気になったが、『東京新聞』の記事にはその部分はない。
 ネット上には、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長伊藤和子氏による、暫定報告書段階での反論があった(2013年10月27日付)。伊藤氏によると、国連科学委員会はおもに原発推進側の科学者によって構成され、現地調査を行った形跡もなく、報告書も日本政府、福島県から提供されたデータのみでまとめられ、日本政府から独立した客観性のある調査とは認めがたいという。しかしながら、報告書が国連総会で承認されると国際的コンセンサスとして扱われ、「被曝影響はほとんどない」という日本政府の主張の拠り所となりうるという。
 ほかに国連科学委員会内部、つまり同じ推進派のなかからも、今回の報告書は「過小評価すぎる」という批判もあったという。国連科学委員会も「安心神話」の「スリコミ」組織のひとつなのである。
 他方、国連人権理事会から特別報告者に任命されているアナンド・グローバー氏は、2012年11月に2週間にわたって原発事故の被災者や行政関係者への現地調査を行い、翌年5月の国連人権理事会で報告し、今年3月にも来日して日本外国特派員協会や参議院院内集会で講演を行った。このグローバー勧告について、『東京新聞』は2013年6月22日付、2014年3月21日付、4月6日付で大きく取り上げている。
 グローバー氏は、まず事故直後にSPEEDIの情報提供が遅れたために甲状腺被曝を防ぐ安定ヨウ素剤が適切に配布されなかったことを指摘し、その後の健康調査については、甲状腺がん以外の病変も起こる可能性を視野に、「甲状腺の検査だけに限らず、血液や尿の検査を含めてすべての健康調査に拡大すべきだ」と求めた。また日本政府が避難基準を1年間に浴びる被曝線量20ミリシーベルトにしていることに対しては「健康を享受する権利」という考え方から、年間1ミリシーベルト以上の地域に住む住民すべてに対する健康調査を求めるなど、日本政府にとって厳しい内容となっている。
 日本政府は「第三者的な専門家による助言で、この勧告には法的拘束力がない」「低線量被曝による発がんの増加は明確な証拠がない」として、勧告に沿った動きはみせておらず、ほとんど無視に近い態度だが、世界に向けては「実施済み」と嘘の情報を流している。

 政府は方針どおりに着々とすすめるようだ。新年度に入った4月1日、福島県田村市都路[みやこじ]地区の原発20キロ圏に出されていた避難指示が解除された。政府は、国による除染が終わり放射線量が下がったとしているが、事故前の数値になったわけではなく、まだ年間1ミリシーベルトをこえる場所も多いという。これが事故後3年過ぎて、避難指示区域の初めての解除となる。しかも解除後1年で補償は打ち切りになるという。
 4月11日、新たなエネルギー基本計画が閣議決定され、安倍政権は原発再稼働へと突き進むことになる。再生可能エネルギーなどほとんど使うつもりもないうえに核燃料サイクルの続行もセットになっている。これで、先に示した自民党の政権公約は完全に否定された。
 高速増殖炉「もんじゅ」は莫大な予算を注ぎ込んで半世紀をへても稼働せず、9,700件の点検漏れまで発覚して、2013年5月には原子力規制委員会からは無期限運転禁止を命じられている。核燃料サイクルでは、原発から出た使用済み核燃料を再処理する青森県六ヶ所村の再処理施設もいまだ稼働の目処も立たないが、すべて続行である。
 鹿児島県の川内原発1、2号機は6月にでも再稼働されるようだ。『日刊ゲンダイ』ネット版(2014年3月25日付)によると、全国の火山学者が選んだ「巨大噴火の被害を受けるリスクがある原発」のワースト1が川内原発だという。周囲に阿蘇や姶良[あいら]など巨大噴火後に形成されるカルデラが存在しており、送電線に大量の火山灰が降り積もれば外部電源は完全に失われるという。

 福島第一原発の事故を通してぼくらはよく学習したはずだった。原発は電源が切られたらおしまいである。事故が起きれば地元自治体は崩壊し、国は被災者を救済しない。使用済み核燃料の処分の道筋はついていない。作業員の被爆を抜きにはメンテナンスもできない。原発とはこういうものなのである。
 これでも続行するのか。電気が不足しているわけではない。核武装のためか。いまでも原爆5,000発分も製造可能なプルトニウムを抱えているというのに。ワシントンでは日本核武装論がささやかれているとも聞く。
 今回の事故は、日本が立ち直る絶好の機会かもしれないと考えたこともあったが、それもかなわなかった。たった一度の原発事故では不足と言いたいらしいが、もう一度起きたら日本はおしまいだろう。震災前の日本もとんでもない社会だったが、震災後もやっぱりそのままだ。モソモソモソモソと地面を這いずり回っているような不快さを覚える。
 4月13日付の『東京新聞』に、共同通信による世論調査の結果が発表されている。
 それによると安倍内閣の支持率は59.8%と、3月末の調査からまた上がっていて驚く。エネルギー基本計画を評価するは39.0%、しない53.8%、集団的自衛権の行使に賛成が38.0%、反対52.1%、防衛装備移転三原則に賛成が36.2%、反対50.4%である。政策的には経済政策に期待できるがもっとも多く20.8%で、首相を信頼するは、わずか13.8%にすぎない。ではどうして安倍政権を支持しているのかとみると、ほかに適当な人物がいないがもっとも多く、29.0%である。
 エネルギー基本計画にも反対、集団的自衛権の行使にも防衛装備移転三原則にも反対、首相も信頼できないのなら、そんな内閣は支持しないと正直に言ってもらいたい。内閣支持率約60%という数字はいったいどこから出てくるのかと言いたいが、同じ質問項目でも、並べる順番によってはこのような結果が出てくるという分析もあって、ある程度納得できる。安倍首相と福山正喜共同通信社長は食事をともにする仲なので、この世論調査の結果もつくられたものとも言えるが、しょうがないと諦めているわけにもいかないのだ。 (2014/04)

<2014.4.15>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第19回:東京は本当に安全か?

 2013年9月、ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で、2020年のオリンピック・パラリンピックの開催地に東京が決定した。東京招致委員会理事長でもあったJOC会長の竹田恆和[つねかず]氏は総会に先だって記者会見にのぞんだが、質疑応答で出た6つの質問のうち4つが福島第一原発の汚染水漏れに関連するものだったという。そこで竹田氏は海外メディアに対して次のように答えて東京の安全性を強調した。
 「福島とは250キロ離れている。皆さんが懸念するようなことはまったくない」
 海外メディアからは「証拠となるデータを出すべきだ」「(投票権をもつ)IOC委員には東京ではなく福島の状況を問題視している人がいる。それに十分言及せずに支援は得られないのでは」などの不満が出たという(『日刊スポーツ』Web版、2013年9月5日付)。
 日本でも大きく報道されて、ネット上では「その言い方では、福島は危険ということか?」などと揶揄されたが、はたして東京は安全といえるのだろうか。

 東京都小平市の開業医で、おそらく東京の医師ではもっとも多くの子どもたちを被曝対応で検査してきたといわれる三田茂医師が、2014年3月末で医院を閉め岡山市へ移住、4月21日から同市に新たに医院を開業した。彼の父が50年以上も前に小平に開いた三田医院だが、自分の子どものことを考えると、この東京にはもう住み続けられないという結論を出したのである。なお、三田医師に関してはネット上の情報しかないが、自分が信頼すると思えるところを記す。
 三田医院の診療科目は「内科・消化器科(胃腸科)・小児科」である。そもそも甲状腺疾患は大人の病気のため、一般の小児科医は甲状腺の知識もなく、子どもに甲状腺検査を行うことなどまれだという。しかし三田医師は、甲状腺疾患の多発地域である長野県の信州大学医学部で菅谷昭氏(現松本市長)に学んだため、甲状腺については厳しく教えられてきた。
 そこで3.11以降、子どもの甲状腺検査(エコー検査)、血液検査を積極的に始めたところ、小平市近隣や都内各地域、近県からも不安を抱く母親たちが子どもを連れて訪ねてくるようになり、被曝懸念から診察した子どもの数は1,500人以上、述べ2,000人になるといわれる。
 ところで、三田医師と親しい放射線技師によると、2011年3月、その技師が勤めていた病院でレントゲン・フィルムがシミのように感光してしまったという。これは医療機関から富士フイルムに問い合わせが相次ぎ、公式見解が出されてもいる。レントゲン・フィルムは、病院のなかでもいちばん奥まったところに密閉して保管されているが、そういう空気の流れがないと思えるところにも多くの放射線が入り込んでいたのである。東京の鉄筋コンクリートの建物の奥深いところでも、そのくらい被曝してしまっていることを自覚してほしいという。
 まず三田医師は、三田医院の30〜80歳の患者の採血データのうち2008年以降のものを見直して、3.11以前と以後の傾向をみることから始めた。その結果、血小板、白血球、貧血などに差はなく、大人に関しては変化がみられないという。
 一方、子どもについては事故前のデータがなく、2011年12月から見始めて、血小板、赤血球には変化はない。しかし白血球、とくに好中球は2012年、13年と数が少なくなってきている。好中球減少は幼稚園から小学生に多くみられ、乳児のなかには極端に少ない子もいた。この症状が進行すると敗血症などの致命的な疾患を発症する恐れがあるという。また、本来ないはずの異型リンパ球があった子がいて、3カ月後の再検査でも変化がなかったという。
 好中球が0だった神奈川のある0歳児の場合は、熊本に移住してその後も定期的に検査を受けたところ、いまでは基準値まで回復しているという。大人でも、白血球の減少や極端に元気がなくなったという人には西への避難をすすめているという。1年間に1カ月西で過ごすだけでも充分効果があるという。
 喘息はお年寄りにひどい傾向があり、10年以上も診てきている患者のなかに事故のあと咳が3カ月、4カ月止まらない人がいて、薬をこれまでの3〜4倍使わないと抑えられなくなってきたという。これはもう治療の限界で、北海道や西へ逃げるようにすすめているという。
 甲状腺癌に関しては、子どもを連れてやって来る30〜40代の父母に何例か見つかっているが、全年齢の人が一度は検査を受けるべきだという。東京はこれまでも充分な検査が行われていないが、今からでもやるべきだし、それ以上に血液検査は優先的にやるべきだという。
 このように明らかに異変は起きているのだが、三田医師は患者ひとりひとりの被曝線量を把握しているわけではなく、首都圏の人々がどのくらい放射線を浴びたのかも明らかになっていない状態なので、放射線との因果関係を立証できるわけではないという。ただ、原発事故のあとという状況下でそれまでとは違う症状が増えてきた場合、「まず放射線の影響を考えてみる」というのが医師として本来あるべき姿勢だという。
 三田医師が懸念しているのは、三田医院で検査を受けたことで、それで安心して東京に住み続ける人がいることである。そのため、東京はもう居住に適さないことを行動をもって警告する意味もあり、家族とともに岡山へ移住することにした。これからは、西に暮らしながら関東の人々に保養や避難を呼びかけていくという。移住先となった岡山県は、東日本からの避難者を積極的に受け入れていて、東京からの避難者も数千人になる。
 気になることだが、3.11以降、三田医師自身の体調も思わしくない。ここ1〜2年、口の末梢神経のしびれが出たり、頭の皮膚炎もなかなか治らない、声も以前と変わってきたように感じられるともいう。
 三田医師は請われれば講演も行っており、新聞社やテレビ局の取材も受けていて、テレビだけでも3〜4社になるが、記事や番組となって伝えられることはないという。
 テレビ朝日の「報道ステーション」は、2014年3月11日の放送で福島県の子どもたちの甲状腺癌についてのレポートを伝え、評価も高かったようだ。番組では福島県に限らず、関東地方の子どもたちについても取材していて、古舘伊知郎氏自身が三田医師に会っている。
 取材のなかで三田医師は、子どもたちの白血球の数値が低くなっていること、ホットスポットといわれる柏市、三郷市に限らず、さいたま市、川崎、横浜、相模原などの子どもたちの数値もよくないことを伝えた。古舘氏は、顔と名前を出して放送してよいか了解を求め、三田医師は「大事なことだし、きちんとしたよい番組をつくってくれるならかまわない」と応じたという。ところが数日後に連絡があり、「じつは東京が危ないという放送はできない」ということが伝えられ、結果的に福島県のみの問題として放送されたという。
     *
 毎年春先になると、テレビでは東京湾の潮干狩りの映像が伝えられる。東京湾でもっとも早いのは富津海岸の潮干狩り場で、今年は3月15日に営業を始めたという。しかし営業開始早々の3月末、神奈川県三浦市沖の貨物船衝突事故によって流出した油の影響で一時閉鎖に追い込まれたが、4月中旬には再開できた。そしてこのゴールデン・ウィークには5万人の子ども連れの家族で賑わうだろうという予測記事も読んだ。
 少々さかのぼって新聞記事などを見ていくことにする。
 近畿大学の山崎秀夫教授(環境解析学)は、2011年8月以降、東京湾内の36カ所で海底の泥に含まれる放射性セシウム134と137の濃度を測定してきたが、半年ほど経過して、荒川河口付近の海底で濃度が上昇していることを確認した。とくに江東区の若洲海浜公園近くでは、泥の表面から深さ5センチの平均濃度が、8月には308ベクレル(1キログラム当たり。以下同様)、10月に476ベクレル、12月には511ベクレルと上昇していて、ほかの多くの地点でも同様の傾向がみられた。また、湾の中央部よりも河口付近の数値が高い傾向になっているという。それでも今回の数値は、ゴミ処分場で埋め立て処分が可能な国の基準値8,000ベクレルを大きく下回っている。同時に採取した魚介類の濃度も測定しているが、多くとも10ベクレル以下で、「このまま推移してくれれば問題のない数値」としている。山崎教授は東京湾への放射性セシウム流入のピークを1、2年後とみているが、セシウムが河口の泥のなかに深く潜ってくれるなら湾全体への拡散は抑えられるはずと語っている(『東京新聞』2012年3月2日付)。
 同じく山崎教授は、2012年4月2日、荒川河口周辺5カ所で海底の調査をしたところ、放射性セシウムの量が7カ月間に1.5〜1.7倍に増えていた。前回もっとも多かった地点では、1平方メートルあたり約1万8,200ベクレルから約2万7,200べクレルへと約1.5倍に、ほかの地点では最大1.7倍に増えていた(『朝日新聞』2012年5月10日付)。なお同じ調査結果を報じた5月14日付『読売新聞』の記事では、最大13倍に増えた地点があることが記されている。
 2012年5月26日にNHKが報じたところでは、京都大学の山敷庸亮准教授らの研究チームは、今回の原発事故で関東地方に降った放射性物質のなどの調査データを用いて、東京湾海底の放射性セシウムの濃度を、事故の10年後まで予測するシミュレーションを行った。その結果、2014年3月にもっとも高くなり、荒川の河口付近では局地的に4,000ベクレルに達すると推定している。東京湾は入り口が狭く閉鎖性が高いため外洋からの海水が流れ込みにくく、その後10年間は同じ状態が続くという。
 東京都は、2013年6月7日、千葉県が市川市の江戸川下流域で採取したウナギから基準値を超える140ベクレル(基準値=1キログラム当たり100ベクレル)を検出したことから、関係する2カ所の漁協に出荷自粛要請した。また、水産庁が5月17日に江戸川の中流で捕獲したウナギ4匹から基準値を超える放射性セシウムを検出し、最大のものは158.9ベクレルだった。
 同年9月19日、原子力規制委員会は、東京湾の海底土の放射性セシウム134、137の濃度の測定結果を公表した。事故前のデータと今年の6月採取分のデータの比較では、基準点で16倍、最大48倍の高濃度を記録した。もっとも低いのは外洋との入り口付近で、もっとも高かったのは木更津市沿岸部だった。
 同年10月18日付『日刊ゲンダイ』は、10月15日から16日にかけて伊豆大島に家屋倒壊などの被害をあたえた台風26号が、東京湾に注ぐ河川にとどまっていた放射性汚染物質を一気に湾内に押し流し、堆積していた汚染物質とともに攪拌してしまったという懸念を報じている。

 ここにあげた多くの報道が示すように、東京湾の放射性セシウムによる汚染は以前より懸念されていて、2014年3月には濃度が最大になるとみられていた。ただ、調査しているのは放射性セシウムだけで、他の核種についてはほとんど行われていない。放射性セシウムに関しては、淡水魚にくらべて海水魚は体内に取り込んだセシウムを排出するのが早いため、思いのほか魚介類のセシウムは少ないようだという報道もいくつか見受けられる。
 そうして2014年になると、懸念していたような報道がほとんどみられなくなる。テレビでは、前にあげたような家族連れの潮干狩りの話題や、東京湾の魚介類をあつかったグルメ番組が楽しそうに放送されている。美味しそうに食べている姿を映すことで、安心・安全をアピールしているのかもしれないが、ひどい汚染の実態が隠されてしまっていることがないことを祈るのみである。
 原発にも詳しい水産学者の水口憲哉氏が、2013年8月にラジオ番組で海水魚全般について語っていたが、福島県沖をのぞいてほとんどの魚は心配ないが、ときどき数値が高いものが見つかるという。ただ、セシウムのみの調査であることが気になるとのことだった。東京湾についてもほぼこのような状態でほとんど問題ないとしても、安心してよい状態とはいえないようだ。
 先に紹介した三田医師の場合は、報道されなければなにも問題はなく、安全なことになる。しかし、テレビ朝日が三田医師に取材したことはネット上で明らかになってしまっているので、放送取りやめになった経緯をオープンにしないと、三田医師の警告が真実味を帯びてくることにもなる。ただ、三田医師も述べているのだが、症状が出るかどうか、また症状の出方自体も個人差があるとのことである。
 いま騒がれている雁屋哲氏原作「美味しんぼ」の件も同様である。鼻血が出たという話はこれまでもたくさんあったし、チェルノブイリでも広河隆一氏らによる多くの報告があるが、みんな出たわけではない。気になるのは、民主党政権のときの2012年3月から6月にかけて、自民党の参議院議員熊谷大[ゆたか]、山谷えり子、森まさ子の3氏が追及していたという事実がある。いまになって初めて聞いたことのように大騒ぎや否定しているのはなぜなのか。でも、そのおかげで海外でも報道され、ひろく福島や日本の様子が伝えられることになったようだ。
 話を戻すが、三田医師のように福島から遠い東京でさえ避難したほうがよいと言う人もいる。久々にテレビに登場した双葉町前町長井戸川克隆氏は、「福島に住んでいてはいけない」と明言している。福島を離れられない人々を思うと心が痛む。先日、福島市の小鳥の森についてのレポートを見たが、いまだに空間線量が毎時1マイクロシーベルトを超え、市では部分除染を計画しているというが、ほとんど効果はないだろう。そんな生活がこれからも続く。  (2014/05)

<2014.5.16>

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜  工藤茂

第20回:奮闘する名護市長

 昨年暮れの12月27日、仲井真弘多[ひろかず]沖縄県知事は、米軍普天間基地移設にともなって日本政府が沖縄県に申請していた、名護市辺野古沿岸部の埋め立てを承認した。この知事の決断を県民がどう受け止めたのかといえば、翌28、29日に琉球新報社と沖縄テレビ放送が行った世論調査では、支持するとした34.2%に対して、支持しないが61.4%、知事の承認判断を公約違反とする回答が72.4%に達した。また、今年4月下旬の世論調査でも辺野古移設支持が16.6%に対して、反対は73.6%にのぼっていて、県民の意識は明らかである。なんとすっきりした世論調査であろうか。本土の大手新聞の行う、わけの分からない世論調査とはエラい違いではないか。

 このような状況のなかで、日米両政府が強引に推し進めようとしている移設計画撤回を訴えるために、名護市の稲嶺進市長は5月16日(日本時間、以下同)にアメリカに渡った。ニューヨークとワシントンを合わせて8日間の滞在で、政府当局者、元政府高官、上下両院議員や元議員、安全保障専門家との会談、そして市民集会への参加など47件の予定をこなして、24日夜沖縄に帰任した。
 帰任後の26日から、『沖縄タイムス』が3回、『琉球新報』が4回に分けて、市長のアメリカでの活動を振り返っている。
 「基地をつくるのは日本政府だが使うのは米軍だ。アメリカも当事者である。日本の国内問題だと他人事でとらえてもらっては困る。また、知事の承認は民意と大きく乖離したもので、地元の承認とはいえない」
 「名護市が訴えなければ移設を認めたことになる。動かなければなにも始まらない。動くことで、そこからまた新たな一歩が踏み出せる」
 記事には、稲嶺市長自身のこのような強い信念がちりばめられているが、正直のところ、相当厳しい様子がうかがえる。しかしながら、かすかな望みがないわけではないという印象を受けた。アメリカ社会では辺野古移設問題の認知度が低いことは察しがついていた。ただ仲井真知事の埋め立て承認が、それですべてが決着したというほどの重みがあることは予想外だった。まさにアメリカの当局者や識者、市民への直訴の旅である。

 名護市側では、日本大使館を通じてアメリカ国防総省に会談を申し入れていたのだが、結局応じてもらえなかった。2年前の訪米の際には北東アジア部長が応対してくれたのだが、今回は知事の承認を根拠に移設問題は決着済みとの見解を強調して、会談に応じることはなかった。
 一方、国務省は日本部副部長が応対して「沖縄の負担は理解しているが、移設は国と国が決めたこと」と述べるにとどまった。日本部副部長という役職は日本の役所の課長補佐に相当していて、これが市長が会えた政府当局者の最高クラスだという。
 国防総省のある幹部は『沖縄タイムス』のインタビューに「埋め立てを承認した沖縄県知事の決定を日本政府も歓迎している。われわれがそれを飛び越えることは、内政干渉につながりかねない」と語っている。これが政府当局者の態度である。会談に応じた国務省の日本部副部長にしても、本音は国防総省の担当者と同じ、「もう決まったことだ」というものだろう。
 『ニューヨーク・タイムズ』は、今年の1月、稲嶺市長が再選されたときや今回の訪米の様子も詳しく報道しているが、今回の訪米日程がほぼ終了した23日、市長に対するアメリカ政府の冷遇を伝えている。しかし稲嶺市長は「回答は想定内。だが、地元の反対を直接伝えていくことが大事だ」と答えている。

 これまで辺野古移設の見直しを提言してきた、新アメリカ安全保障センターのパトリック・クローニン上級顧問は、稲嶺市長との会談で「このゲームは国が勝利し、地元は敗れた」と評した。「やはり知事承認の影響は大きい」と、辺野古移設支持に転じたことを明らかにした。
 ジャパン・ハンドラーの一員といわれながらも、地元の抵抗を根拠に、以前より移設計画には懐疑的だったコロンビア大学のジェラルド・カーティス教授は、アメリカは当事者だが、これは国内問題だとしつつも、知事の承認で移設計画をくつがえすことが難しくなったと移設撤回に否定的な見方を示した。また、最初から無理な計画で、明らかな市民の反対を無視してすすめるのはどうかと思うとも付け加えている。
 1960年代後半と本土復帰後にも沖縄駐留経験のあるジェームス・ジョーンズ氏は、1999〜2003年まで海兵隊総司令官を務め、米軍再編協議にもかかわった人物である。ジョーンズ氏によると、在任中にラムズフェルド国防長官に対して、辺野古移設をともなわないグアムの空軍基地の活用を提案して了承されながらも、日米両政府が受け入れなかったという。「政治の問題だった」との見解を述べ、軍事的な必要からではなかったことを明らかにした。
 またジョーンズ氏は、普天間は長期駐留すべき基地ではない。基地周辺の人口を考えても無理な基地だとも指摘。辺野古移設については、コストも高く、環境への影響も大きいとし、グアム、ハワイ、オーストラリアへの移転で沖縄駐留米兵は充分削減されるはずだと述べている。「成功を祈る。市長の話は海兵隊のトップに進言したい」と市長を激励しつつも、現時点での計画変更は厳しいという見方を示した。
 2012年に辺野古移設の再考をアメリカ政府に求めたジム・ウェッブ元上院議員は、13年に引退したが、いまでも議会や国防総省に影響力をもつ。偶然にも稲嶺市長との会談当日、民主党次期大統領候補として報道され、突然時の人となった。ウェッブ氏は「いまでも辺野古移設は難しいと思っている。いまの立場でできることは協力したい」と応じた。数日後、ウェッブ氏が上院軍事委員会のレビン委員長に稲嶺氏との会談内容を伝えたことが明らかになった。米議会筋によると、ウェッブ氏は「稲嶺市長が再選したのは辺野古に基地はいらないという民意によるもので、必ず辺野古を守るとの意思を表明し、米議会の協力を求めていた」と伝えたという。レビン委員長は、2011年4月、ウェッブ氏のすすめで沖縄を訪れ、仲井真知事に対して辺野古移設の日米合意の見直しを要請している。

 協力的な態度を示してくれているが、知事の了承の影響で移設撤回がいかに困難になったかがよく分かる。それでも会談相手のなかには、市民の阻止行動の様子や県知事選挙の見通しを市長に尋ねるなど、今後の動向次第では移設問題が混迷するという見方をする人々もいたようだ。稲嶺市長は「日本政府の姿勢に県民は強く反発している。手続き上はすすんでも、実際の移設作業は必ず混迷する」とアメリカ側に対して繰り返した。「今後沖縄の状況が緊迫すれば、ワシントンでも見直し論が再燃するはず。地元の内実を伝えておくことが大切だ」と語る。
 アメリカ海洋哺乳類委員会を訪問しジュゴンの保護勧告の要望を行ったほか、トークイベントも開いて市民に訴えたり、平和運動の活動家たちとの意見交換も行った。ノーベル平和賞受賞団体「アメリカンフレンズ奉仕委員会」のジョセフ・ガーソン氏が辺野古移設反対を求める取り組みの実行を表明してくれた。市長は10社を超えるメディアの取材にも応じている。とくにブルーム・バーグのワシントン支局論説委員室を訪問した際には、7人を相手に1時間以上の議論になった。もちろん、記事も充実した長いものになった。

 こんな稲嶺市長にエールを送るかのように、『ニューヨーク・タイムズ』(5月15日付)は、加藤典洋氏の「沖縄人たちの闘い/"The Battle of the Okinawans"」という論考を掲載した。日本語で執筆された原稿が英訳掲載され、ネット上に酒井泰幸・乗松聡子両氏による日本語訳があったので、ぼくはそれを読んだ。
 論考は琉球王国時代、琉球処分、日本本土の盾となった第二次世界大戦末期、アメリカの軍事占領下時代、日本へ復帰後の日米軍事同盟下と、苦難と忍従の歴史をつづる。そして竹富町の教科書採択問題で繰り広げられた、国を相手にしての竹富町教育長、沖縄県教育長の闘いを紹介する。霞が関まで呼びつけられても屈することなく抵抗をつらぬき通したこの2人にくわえて、「政府の移設計画を阻止するかもしれない」稲嶺市長。彼らが示しているものは、強大な権力の前に長く服従させられた人々が備え持つ力強さであり、沖縄の人々は日本政府に対して、強力な決意をもって本当の抵抗とはどういうものかを思い知らせることになるかもしれないという内容である。
 これを読みながらベトナム戦争を思い浮かべた。大国アメリカを相手にベトナムの人々の執拗な抵抗を記憶しているだろうか。アメリカは当時の最新鋭の軍備をもってしても最終的には撤退せざるをえなかった。アメリカもひどく傷ついたが、自業自得だった。冒頭にあげた世論調査の数字をもう一度見るがいい。日本政府には覚悟があるのだろうか。

 稲嶺市長の行動を注視している間に、こんな報道があった。辺野古への移設計画で、来年に予定していた本体工事の着工を今年の秋に前倒しする検討に入ったという。この11月には沖縄県知事選挙が行われる予定である。移設反対派の知事が誕生したら、また厄介なことになる。その前に着工してしまいたいというのが政府の本音である。まさに世論調査を念頭においての政府の動きといえる。
 そんな折り、仲井真知事が6月中に進退を表明するという報道(5月31日)や、翁長雄志[おなが たけし]那覇市長が知事選に出馬意向といった報道(6月4日)が流れ、せわしなくなってきた。翁長氏は、辺野古移設には一貫して反対してきているものの、純然たる保守政治家である。立候補すれば当選の可能性が高いだけに、仲井真氏同様、当選後に寝返ることがないか見極めなければなるまい。いずれにしろ、政府の今後の動き、県知事選挙の動向から眼を離すわけにはいかない。そして沖縄で台頭しつつあるという「米軍はよき友人」をスローガンとする「反・反基地」勢力の動きも。  (2014/06)

<2014.6.13>

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