燈台物語
平松富士夫(ひらまつ・ふじお)
ノンフィクションライター
第3回 塩屋埼灯台3〜空虚感の先に見える原発事故の危険な意味
あれから1年が過ぎ、2012年もいつの間にか暮れる
福島第一原発から20キロ地点(南相馬市) あっという間に1年が経過してしまった。2011年3月11日以降、そしてこの連載の原稿を書いたのはその年の5月。以来、瞬く間に時が過ぎ、年が明けて2012年を迎え、その2012年もすでに師走に入ってしまっている。
私はいったい何をしていたのだろう。書かなければ、という気持ちは逸っていたが、考えがひとつにまとまらずに迷走していた。というより、次から次へと眼前に迫ってくる多様な事象に気持ちが乱されていたといったほうがいいのかもしれない。
大震災から2か月ほど経った2011年5月下旬のある日、私は南相馬市にいた。福島第一原発から20キロ地点。国道6号線にバリケードが置かれ、一般車の南下進入を規制していた。すぐそば、道路に面して食堂とコンビニエンスストアが建つ。駐車場には、自衛隊車が数台停まっていて、隊員が白い防護服に着替えていた。駐車場は20キロ圏内に出入りするための着替え場所になっていたのだ。
食堂は閉められていたが、コンビニは営業していた。入ってみると、「いらっしゃいませ」の若い女性の妙に明るい声。意識的にそう振る舞っているのが痛いほどにわかる。商品棚はスカスカ。客足が遠のいているのは明白だった。
私は、バニラアイスを買って車に戻り、運転席に座ってそれを頰張りながらバリケードを眺めていた。
この6号線を南下すれば、福島第一原発に至る。それからさらに30キロほど南下すれば、塩屋埼燈台が立ついわき市に届く。直線距離にすれば、ここからは50キロほどだ。通常ならば、1時間も車を走らせれば届く距離である。しかし、いまは、この50キロが途方もなく遠い。
名取市閖上地区で襲われた空虚感
名取川 この日から5か月後の10月下旬、私は仙台駅近くから海岸に向かって車を走らせた。海岸に近づくにつれて津波で壊された建物や荒れた田畑の剝き出しのままの姿がずっと続く。しばらく行くと、通行止めのバリケード。瓦礫処理、復興工事のために一般車が入れなくなっている。右折し、海岸線に沿っての道路を南下する。行き交うのはほとんどがダンプ車。左右には津波でつぶされた家屋、田畑の荒野が広がっていた。
左右の荒れた風景に目を奪われているうちに名取川に至る。土手に車を停めて河口の方を眺める。左の海岸線に傾いた松の木が数本見える。猛烈な津波から辛うじて生き残ったのだろう。あの日、名取川を猛烈な勢いで遡上した津波の映像が頭の中で甦る。どす黒い液体が土手を越えて田畑を飲み込み、車を内陸部へと押し上げたのだ。その黒い液体と一緒に、破壊された大量の家屋の断片がかたまりになって滑っていた。多くの犠牲者が出るだろうことは容易に想像できた。あのとき、私は、見てはならないものを見せられているような気分に陥っていたのだが、あれが紛れもなく現実だったのである。
名取川を渡り、名取市閖上地区に入る。すぐに五叉路交差点に至る。そのすぐそば、被害を受けて営業していないどうやらコンビニだったらしい店の駐車場に車を停めて五叉路交差点の陸橋にのぼる。
海岸線に並行して走っているのが10号線で、海岸から名取駅に向かって延びているのが129号。陸橋の上から名取川を背にして10号の右前方を見るとそぐそこに閖上小学校が見える。次に、身体を90度左に向けて129号に沿って海岸線の方向右側に閖上中学校が見える。この129号沿いを中学校や小学校へ避難する途中で津波に飲み込まれた人も少なくない。道路が渋滞した。学校の屋上まで駆け上がって難を逃れた人、途中で力尽きた人。この五叉路交差点の陸橋にのぼって助かった人もいる。生死の運命は紙一重のところで分かれている。
129号を名取駅に向かって少し走ると、仙台東部有料道路にぶつかる。津波が押し寄せたとき、この有料道路が防波堤にような役割を果たし、ここに駆け上って助かった人もいる。名取インターの手前左にコンビニがある。女性の店員さんが、この店にも津波が押し寄せてきて水浸しになったのだが、なんとか復活したのだと気丈に話してくれた。しかし、彼女の表情は最後まで硬いままだった。
私はここで、弁当を買って海岸線のほうに向けた車の中で食べる。夕方近くの遅い昼食。わずか10メートルほどの距離の目の前の荒れた田圃のなかに数隻の漁船が横倒しになったまま放置されている。ここから海岸までは直線距離で2キロ超。津波の勢いを今更ながら感じないわけにはいかない。
私は、弁当を食べながら目の前の風景を眺めた。沈んだ曇り空のなかにセピア色に染まった風景。音が聞こえない。静止してしまったかに見える秋の寂しい風景。説明のしようのない空虚感が襲ってくる。私は、いったいここに何をしに来たのか。何をしようとしているのか。
右手に見える閖上中学校コンビニの駐車場から見えた風景
日本人は、いや人類は道をどこかで間違えたのだろうか
1週間後、私は、いわき市に建つ塩屋埼灯台が見える海岸線にいた。灯台と、灯台の南に位置する合磯崎との中間地帯。砂浜に沿って防波堤がのび、その防波堤の内陸側に集落が形成されていた。灯台を訪れるためにこの近くを何度も通ったことがある。集落の細い迷路のような路地に入り込んで抜け出すのに苦労したこともある。その路地は、私が育った漁師集落の路地とよく似ていて、懐かしく感じたこともあった。住人の生活の匂いを強烈に発散させていた集落の面影は、いまはない。大津波がこの集落を一気に飲み込んだことを想像させる残酷な光景を残しているだけである。
その日、塩屋埼灯台に至る道路が通行止めになっており、私は荒れ地になっていた集落跡から灯台を眺めた。灯台は、夜の海を航海する船の安全確保のためにつくられたものである。当たり前の話なのだが、灯台を見上げる位置の海岸線近くの集落を襲った津波に対して、灯台は為す術なく、その惨状をただ見つめるだけだったのだ。私は、意味もなくそんなことを思っていた。そう思う自分のほうがどこかおかしいのだということも十分にわかっていたのだが。
そんな私の漠然とした思いの先に、原発事故がもたらした危険な意味が大きな像を結んでいる。それは、ずっと釈然としないままわだかまりとなって膨らんでいたものである。
3.11の大地震と大津波は未曾有の災害をもたらしたが、それと同時的に発生した福島第一原発の事故は、未来に向けて大きな不安を抱かせることになった。
私は、このことに無関心でいられなくなってしまっていた。ずいぶん前から無意識下にずっと押し込められていた何かが一気に噴き出してきたような印象なのである。
はたして、私たち日本人は、いや人類はどこかで道を間違えてしまったのだろうか。
(つづく)
(2012年12月31日/記)