著者インタビュー 第1回 2011年12月21日掲載
鈴木旭~
『異伝最上義光 立志編』2012年1月下旬発売予定
第1回歴史群像大賞を受賞しながら、その後は小説を書かずにノンフィクションの世界で活躍していた鈴木氏が、再び小説界に戻ってきた。その復帰のきっかけはなんだったのか、また復帰第1作の主人公に最上義光を選んだ理由、そして壮大な大河ドラマになるであろう『異伝最上義光』にかける氏の思いなどを語ってもらった。氏の歴史小説界への復帰は大きな話題になることは間違いない。
少ない史料を補うために義光の行動範囲を歩き回り伝承を拾集。
すると自然に人物像が出来上がり武将が勝手に動き始めたのです。
編集部 鈴木さんは20年近く前、正確には1994年になりますが、小説『うつけ信長』で学研の「第1回歴史群像大賞」を受賞されていますね。第1回の大賞受賞ですから特別に意義深いものがあると思うのですが、その後は小説を書かず、日本史周りのノンフイクションの分野で活躍するようになりましたね。著書も多数出版されておりますし、実績評価も高い。
ところが今回、再び、小説界に復帰し、書き下ろしの歴史小説を発表することになりました。これは約20年ぶりの復帰第1作ということになるわけで、鈴木さんとしても心中深く相当に期するものがあったのではないでしょうか。心境の変化とか、何か、切っ掛けがあったのでしょうか。
鈴木 ないと言えばうそになりますね。どちらかと言えば、私は歴史作家というよりは歴史研究家とか、歴史家だと思っています。それも自分が生まれ育った日本の歴史と文化の調査研究が専門になるわけですが、文字中心の歴史研究だけでなく、考古学、民俗学はもちろん、自然科学も総動員し、実証的に追究するよう、心掛けております。
お陰で他の誰もが真似のできないユニークな視点や方法でアプローチできるようになったのですが、5、6年前のことです。ある歴史上の人物に出会い、興味を感じていろいろ調べ回り、資料を集めようとしたのですが、早々にデッドロックに突き当たってしまいました。 欲しい資料がないのです。探し足りないのではなく、そもそも資料が存在しないことが分かりました。こうなるとギブアップしてしまうのが常ですが、私は諦めませんでした。なぜなら、彼が生まれ育ち、走り回ったであろう土地々々は知らないところではなかったからです。
私は知る限り、彼の行動範囲として想定されるところを隅々まで訪ねて歩きました。そして、徹底的に調べ回り、さまざまな伝承や風聞を拾い集めました。すると不思議ですね。ごく自然に一人の人物像が出来上がり、あたかも生きた人物のように勝手に動き始めたのです。羽前山形の戦国大名最上義光です。この時、閃いたのでした。
「そうだ。このまま小説にすればいい。勝手に動いてくれる」
こうして小説界に復帰することになったのです。ノンフイクションの読み物としては資料が絶対的に不足している。それを補うのは豊富な周辺情報であり、環境情報を固めることによって人物像を描いていくことができる。ノンフイクション分野で培った手法で人物像を作り上げ、シミュレーションしてみよう。そう思い立ったのです。
つくり上げられた暗い人物像は後世の作家の想像力のなさが原因。
地元出身である私は冗談好きで明るいイメージを復活させます。
編集部 それで、最上義光を主役とする歴史小説を執筆することになったわけですか。最上義光は戦国時代を代表するスーパースターである伊達政宗の叔父であり、羽前山形を代表する戦国大名として知られた人物ですが、彼に焦点を当てた理由は何でしょうか。つまりは、鈴木さんが惚れたのは最上義光のどんなところですか。
もう一つ。鈴木さんの出身地は山形県天童市ですね。最上義光の生まれ育ちとダブるところがあるでしょうし、特に親近感を抱くところがありませんか。地元山形では、やはり、最上義光という戦国大名は地元のヒーローというか、人気者なんでしょうか。
鈴木 あまり、山形の地でも知られているとは言えませんね。これは絶対的な資料不足がもたらした弊害と言っていいのですが、世間に知られている最上義光像というのは「雪国山形の重苦しさを象徴するような人物像=キャラクター設定」というのが一般的であり、暗く、重たい人間で、暗殺とだまし討ちの陰険な大名に描かれています。それでなのか、あまり慕われるというような雰囲気を感じられませんね。
しかし、これは最上義光の責任ではありません。後世の作家の想像力不足というか、創造力不足と言っていいですね。
山形人というのは本来、性格が明るくて、冗談大好き、いつも笑い転げているような人々です。こせこせしない。大らかです。暗くて、陰険な義光というイメージは100パーセント塗り替えなければいけないし、まったく逆のイメージで描かれるべき大人物だったのです。もちろん、甥っ子の伊達政宗が太陽のように眩しい、キラキラ光る大名として印象づけられているので、それと正反対のイメージ付けをされたわけですが……。
負のイメージを背負わされた最上義光からマイナスイメージを解き放ち、本来の大戦国大名イメージを回復、復権させたいと思います。
ところで、その最上義光が父義守と対立した時、なんと、なんと、私の生まれ故郷、いまは市町村合併で天童市となっておりますが、元々は独立した村であった天童市高擶地区、元の高擶村で旗揚げげしたことが判明! 私の少年時代、遊び場となった高擶村が義光の旗揚げの地であったとすれば、当然にも原稿執筆にも力が入ります。どんどん私の遊び場であった高擶で遊んでもらうことになりました。飛び回ってもらいます。
編集部 義光亡きあとの最上家は同族間の争いに終始し、自滅してしまったのですが、義光自身は天下に覇を唱えるような気迫、志、野望というようなものは持っていたのでしょうか。歴史に「if」はタブーといわれておりますが、もし、義光が生命を全うしていたならば、奥州統一を成し遂げる可能性はあったのでしょうか。また、それが天下統一にどんな影響を与えて行ったでしょうか。考えられる可能性について語って下さい。
鈴木 最上義光は岩手の南部氏、秋田の佐竹氏、津軽の津軽氏らと連携しながら陸前の伊達政宗と対抗し、江戸の徳川家康と接近して会津の上杉景勝と対峙する陣形を築きつつありました。伊達、上杉との対抗関係を見るならば、文字通りの「奥州三国志」と言うべき陣形作りになっていたことが分かります。
かつては、関東における甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、小田原の北条氏康・氏政の三つ巴の争いが「関東三国志」と評せられたように奥州においても「奥州三国志」と言うべき陣形作りが進もうとしていました。
そうして、着々と進む奥州統一の戦いを大きく描きたいと思います。
5巻まで続く大河ドラマ、知られざる戦国武将の物語巨編。
完結すれば、これまでとは違う最上義光像に驚かれるでしょう。
編集部 『異伝最上義光』は、まずは「立志編」という形で幕開けしたわけですが大長編になるようですね。およそのところ、この先、どういう展開になるのでしょうか。また、ポイントはどんなところにあるのでしょうか。
鈴木 最初の「立志編」は、最上義光が、自分の父であり最上宗家の惣領職を握る山形城主義守に嫌われ、疎んじられた結果、空き城になっていた高擶城(現在の天童市高擶)に出奔し、山寺立石寺と提携して独立戦争に決起する経過を取り上げています。
それは米沢に本拠を置く伊達家の支配下に置かれ、植民地同然に成り下がってしまった最上家(と言うよりも父義守)の現状に不満を抱いていたためで、青年義光の義憤に端を発している。
第2巻は「相克編」と題し、父義守と弟中野義時が合体し、義光廃嫡、追放の挙に出た時、山形最上家を真っ二つに割って応戦した義光の苦闘を描くつもりでいます。その時、兄弟対決、家臣団の分裂という厳しい局面を通じて再生する段階を書き上げる予定です。
第3巻は「統合編」。南北朝内乱時、羽州探題斯波兼頼以来、山形最上家と天童最上家はほぼ同格の一族として遇せられた如く、上下、左右、雌雄の区別付けがたく、事あるごとに対立してきましたが、ようやく義光の代になって統一合体される時を迎えます。これによって、山形の中心を占める村山盆地一帯の統一に向かう基盤が整備される過程を描く予定です。
第4巻は「拡充編」と題し、天童最上家の吸収により、基盤整備を終えた義光がいよいよ最上一族の再編成を通じて周辺土豪の帰服を待たず、力で圧倒して行く戦国大名化のプロセスを描きます。ここで興味深いのは、力で圧倒するだけでなく、既成宗教勢力の組織力、信仰心を巧みに支配と統治のシステムとして活用している点。注目されるところです。
第5巻は「飛躍編」。人も知る関ヶ原合戦において、関ヶ原に向かう暇なく、上杉景勝=直江兼続の猛攻に出会いながら必死の攻防を繰り返し、ついに負けなかっただけでなく、東軍拠点となる山形城を守り抜きます。その功により、いきなり五十数万石の大大名に飛躍しました。
この時、内陸部だけでなく、ついに庄内方面に進出。現在の山形県のほぼ全域を領地に納めます。絶頂期に到達するのですが、義光の死を以て最上家の栄光は幕を閉じてしまいます。お家騒動が勃発するのです。
この時の山形城は当時の大坂城、小田原城と同じような城下町さえも城内に組み込んだ惣構えの設計思想で建設された大都市に飛躍しています。現在の山形市内にほぼ匹敵する広さでした。壮大な構えを以て建設されたのです。事実上、奥州随一の城と城下町であったはずです。このまま行けば、奥州の支配秩序はまた別の様相になったことは十分に考えられます。
最上義光を知る人は少ない。玄人好みの人物ですが、この際、知れざる戦国大名として再デビューを図りたいと思います。