著者インタビュー 第2回 2012年7月掲載

枯木灘夫-1~
『青い瑕〜天下人徳川家康の悔恨〜』 発売中

忍従の末に天下の覇権を握った徳川家康。しかし、それでもまだ未来に向けては盤石ではない。自身の悔恨に満ちた過去を反芻しながら、未来を託すべき人物を洞察する家康。徳川家の250年にわたる安泰の歴史は、家康と秀忠の側近土井利勝の邂逅、一夜の互いの心理葛藤によって決定づけられたとする著者が、そのふたりの心理を巧みに描いてみせた『青い瑕』。著者に異質の作品のキーポイントを語ってもらった。


 
家康は、妻子を殺さなければならなかった経緯、悔恨から
自分を支えてくれる有能な側近の必要性を知る

 ――「青い瑕」は、歴史小説、あるいは時代小説としては異質ですね。動的な登場人物は実質的には2人。つまり、徳川家康と秀忠の側近土井利勝。この2人が、駿府に帰る途中の中原御殿で、大久保忠隣謀反の報に接し、今後の方向を話し合う。というよりは、話を聞いた利勝が、家康の意を汲みどういうふうに持っていけばいいかを思い悩み呻吟する心理葛藤の側面と、家康は、自身亡き後の徳川家の将来を心配しながらも、自身のそれまでの失敗を回顧する側面が描かれている。そしてそれは、将軍の側近論になっている。家康についていた本多父子のように、利勝が秀忠の信頼できる側近になれるかどうかを占うかたちになっている。ちょっと、歴史小説としては非常に異質な作品に思われるのですが。
  枯木 異色、そうですかね。ただ、こういう歴史・時代小説があってもいいのではないかと思っています。私がまず興味をもったのは、今川義元亡き後、同盟を結んでいた信長の命によって妻子を殺さなければならなかったときの家康の心境とはどんなものだったのだろうか、ということですね。その後、忍従の末に天下を掌中におさめます。それはそれで家康は満足したのだと思いますが、その達成感はほんとうに心底から喜べるものだったのだろうか。年をとるに従って、妻子をはじめ、自分の天下取りの過程で犠牲になった者に対するなんらかの鎮魂の念が起きなかったのだろうか、ひとりの人間としてですね、そういう興味をもったのです。
 ―― 信長から命令されたときは、自身と国、家臣を守るためにはどうしてもその命に逆らえなかった。しかたがないと思わざるを得なかった。しかし、天下に覇を唱えてからその当時の自身の言動を振り返ってみると、もう少しやりようがあったのではないかという後悔の念が湧いてくる。死なせなくてもいい方法があったのではないかと思えてくる。これが普通の人間の心情ですよね。
 枯木 その通りですね。その普通の人間としての家康が自分の人生を振り返ったときの心情が縦軸ですね。特に、焦点になってくるのは、妻子、すなわち、瀬名と長男信康を殺さなければならなかった心の瑕ですね。自身もふがいなかったが、周りにいた家臣たちがもっと懸命に、かつ賢明に動いてくれていれば、あのような結果にならなかったのではないかという気持ちが、年をとるごとに大きくなってくるわけです。そして最後には、妻子を殺してまで天下を取ることにどんな意義があったのかという思いにまで行き着いてしまう。このことを踏まえておいて、家康の人生を振り返ってみると、いろんな謎が解けてきます。特に、家臣の人材登用の方法にですね。これが横軸になってきます。私心を捨てて自分に忠信を誓って懸命に動いてくれる人間がどれだけ集まってくれるかが戦国時代を生き抜く大きなポイントになっているわけですが、その忠信のあり方、望ましい忠信の質も時代を経るに従って少しずつ変わってきます。家康の不遇時代、今川義元亡き後の信長との同盟時代、本能寺の変以降、という具合に。で、家康の後半生で大きな意味をもってくる家臣が、本多正信・正純父子というわけです。そして、そこからさらに未来、つまり家康亡き後の秀忠時代のことを展望してみると、秀忠の周りにどんな人物がいるのかという話になってくるわけですね。
 ―― なるほど。信長から、瀬名(築山殿)と信康が武田方と通じているのではないかという疑念の行状を質されてうまく答えられずに、信長の命をそのまま受け取ってきたのが酒井ですね。賢明な家臣ならば、身命を賭してまでそのようなことはないと言下に否定しなければならないとことです。それができなかった。重臣たちの間での瀬名の評判はあまりよくなかったという説がありますが、そういうところが酒井の行動にも影響したということはあるのでしょうかね。
 枯木 仮にそういうことがあったとしても、主の妻子を窮地に陥れるような命を反論もせずすごすごと持ち帰ってくるようでは側近、重臣としては失格ですね。それに、瀬名はそんなに悪い女性ではなかったと思っています。むしろ、結婚当初から、頭角を現してくるまでの家康を十分に支えてきたと思いますね。そのことが家康もよくわかっていた。だから、瀬名を死なせてしまった悔恨の念が年を経るごとに強くなってくるわけですね。家康は、信長の命に従った自分のふがいなさを十分承知しているわけですが、それでもなおというか、だからこそ、側近がもっと気を利かせてほしい、自分の気持ちをわかってほしかったという悔しさがだんだん強くなっていったのだと思いますね。
家康が欲した側近の資質は一を示唆して十を実行してくれる家臣。
秀忠側近の土井利勝は本多正信・正純を超える資質の持ち主?
 ―― なるほど。いわば、そこが、『青い瑕~』のなかで、通奏低音のように響いているわけですね。
 枯木 その酒井が、後年、家康の関東入部の際、息子に対する知行割が少ないからもっと多くしてほしいと申し出て、家康から「そちもわが子がかわいいか」と皮肉られてしまうわけです。こういうことからも、妻子を無駄無駄殺してしまった家康の心の瑕が相当に大きかったことがわかりますね。しかも、年をとるにつれて大きくなってきている。だから、酒井に対しても、すぐに皮肉が出てくる。最後まで、彼らを許していないんですね。
 ―― そういうところから、結果的に、的確に、あるいは機敏に家康を補佐してくれる側近の重要性が浮かび上がってくるわけですね。
 枯木 家康の前半生、つまり常に戦いに勝利しなければ生き残れない時期には、強力な武力戦闘集団が大きな要素を占めていた。これに当たるのが昔から家康に従ってきた三河武士団ですね。彼らは、家康が天下人になることを願って必死になって戦ってきた。力と力のぶつかり合いでの戦いには強かった。しかし、家康の真意をいわず語らずに理解したり大局を見て物事を瞬時に判断するという能力に関しては、家康にとっては物足りないものがあったということですね。
 ―― そういうなかで頭角を現してくるのが、本多正信・正純父子ですね。
 枯木 そういうことです。正信は異色ですね。三河での激しかった一向一揆の際には、家康と敵対して国を離れ諸国を放浪した後、再び徳川軍団に戻ってきます。戻ってきてからの正信は、まさに家康一筋、一心不乱ですね。家康に対して負い目がある分だけ、帰参後は家康一途に働いている。家康のためになることならなんでもやろうという覚悟が見える。その心情が子の正純に伝わりしみついている。家康もそのことがわかっているから二人を重用していくわけですね。ところが、武功で家康を支えてきた重臣たちは本多父子とは考えがちょっと違ってくるわけですね。家康の不遇時代から自分たちが支えてきてここまでになったという思いがあって、それが、何か事があるたびに歪な形で顔を出してくるわけです。彼らは、正信が重用されることが面白くない。たいした武功もないのに、口先の話術だけで家康に取り入っていると陰口を叩くわけですね。
 ―― だから、酒井のように知行割に文句をつけるような人物が出てくるわけですね。
 枯木 知行でいえば、正信が関東入部の際にもらったのは、わずか一万石です。この数字は、他の重臣に比べると相当に低い。それ以上の内示があったが、正信はそれを断わっている。こういうところは非常に賢いですね。また、知行高が低いからといって仕事に手を抜くのではなく、誰よりも一生懸命に事に当たっているわけです。家康はそういうところをじっと見ているわけです。
 ―― こうしたことの延長線上に大久保忠隣謀反の疑い事件が出てくるわけですね。
 枯木 そうです。事件そのものは単純な事件です。忠隣が謀反を起こすわけはないのです。家康もそのことはわかっているはずです。それでも、忠隣になんらかの処罰を与えなければならなかった。忠隣は脇が甘かったのですね。そこが、正信と徹底的に違うところですね。忠隣事件の伏線になってくるのが、大久保長安事件ですね。長安は鉱山の採掘で実績をつくり、家康に重用された。ところが、長安が死ぬと、その周辺が徹底的に洗われて一族郎党が冷酷に処罰されていく。家康は、生前の長安の行状をじっと監視していたんですね。金、銀、銅の採掘で家康に多大な貢献をした一方で、日頃の派手な生活が家康のアンテナに引っかかっていた。
 ―― 大久保長安は武田の残党ですね。
 枯木 そうです。武田軍団滅亡後、大久保一族の口利きで家康の傘下に入り、大久保の姓を名乗るようになった。ここで、長安の派手な生活と、忠隣の同僚への気前よさが引っかかってくるのですね。忠隣の家を訪れた者は、誰彼を問わず、歓待されていい気分で帰ってくる。そのように大判振る舞いができる金はどこから出ているのか、と。これは長安との絡みで見られる。長安は金、銀の採掘量をごまかしていたのではないか。だから、あんな派手な生活ができたのではないか。その長安からの資金が忠隣に回っていたのではないか、と。また、忠隣邸を訪れて歓待されていた人物のなかには、旧豊臣家の家臣だった者もいるわけです。時は、関ヶ原の戦いを制して、徳川家の世になっているのは間違いないのですが、大坂には淀君も秀頼もいて、二人を慕っている武将もまだかなり残っている頃です。そういう状況を踏まえると、忠隣の行状は家康や側近たちの目にどういうふうに映るだろうか、ということですね。ところが、忠隣自身はそういうことに目配りができていないのですね。そこに、脇が甘いというか、驕りのようなものが見えてくるわけですね。つまり、家康がここまでのし上がってきたのは、三河時代からわれわれがを支えてきたからではないか、という思いが心のどこかにの澱んでいるわけですね。ただ、澱んでいるけれども、謀反を起こそうなどという気は全くない。全くないから、驕りの部分だけがこっそり顔を出してしまうわけですね。本当に謀反を企んでいたのならば、それが知られないように日頃の言動に気を付けて生活も目立たないように慎ましくするでしょう。謀反なんて考えたこともないから、これまで大いに貢献してきたのだから少しぐらいハメをはずしても誰も文句は言わないだろうといった具合に高を括ってしまうわけですね。そういう隙ができて、その隙を家康や側近たちに突かれてしまうのです。
 ―― 忠隣失脚を企んだのは本多父子だという説が根強いですね。
 枯木 だとしても不思議ではないですね。ただ、それは、家康の意志を斟酌して彼らが家康に進言したということでしょう。家康は、これまで自分を支えてくれた家臣を自ら進んで陥れるということはしないけれど、忠隣の日常の言動に対して家康が危惧を抱いていることを敏感に察知して、その危惧を早急に取り除く術を提示するのが気のきいた側近の役割ですね。家康から十の指示をされて十を忠実にやるというのは誰でもできる。それでは側近としては役に立たない。家康がなんらかの示唆をひとつすると、そこから家康の考えを汲み取ってすばやく十のことをやり遂げなければならない。優秀な側近の役割です。それに応えたのが本多父子なのではないでしょうか。
 ―― 本書のもうひとりの主人公は秀忠の側近土井利勝ですね。
 枯木 土井利勝に、家康が何を考えているかを洞察させるのが狙いですね。家康は、無能な側近のせいで妻子を殺さなければならなかった悔恨から、有能な側近の重要性が身にしみてわかっているわけです。逆に、側近になるべく人物は、公私ともに主になり切るほどに、というよりなり切って主に災難が降り掛からないように物事に対峙していかなければならない。主が能力において劣っていればいるほど側近の役割と重要性が増してくるわけですね。側近になる人物はそのことを肝に銘じ、腹をくくらなければならない。家康亡き後の時代は、二代将軍秀忠の側近である土井利勝の心構えに徳川の存亡がかかっているという、絶対的な覚悟を悟らせるというストーリーが本書のもうひとつの重要な要素になっているわけです。
 ―― では、この辺で。興味もたれた読者の方は、本書を読んでいただくということになりますが、本書の続編はあるのかという問い合わせが入っているのですが。
 枯木 作品を読んでいただくと、そういう風に感じられる方が多いと思います。もちろん、そのつもりでいます。
 ―― 次回に、そういうことも含めて、もうひとつの作品『躍る古文書』について話していただきます。よろしくお願いします。

(2012.6.30)

枯木灘夫(かれき・なだお)

出版社・新聞社勤務を経て作家に転身。歴史、文学、心理、科学……幅広いジャンルの編集、記事を扱った経験を生かし、これまでに類を見ない独自の作風の確立に意欲的に取り組んでいる。 

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