作曲家・武満徹~ピアノをめぐるひとつのエピソード

稲積魁太(いなづみ・かいた)
フリーランスライター


独学で歩んだ作曲家への道

 世界的に名の知られた音楽家・武満徹(1930~1996)。
 武満といえば、私は、どうしてもピアノにまつわるエピソードが頭に浮かんでしまう。いまではあまりにも有名になりすぎている話ではあるが。
 すでに経済発展を遂げ物質的な面では裕福になった日本。そのなかで音楽家を目指す人間が自分の家にピアノを置いているという環境はごく普通の光景であろう。幼少の頃からその筋の専門家に師事し、家庭ではピアノの練習に勤しむ。この普通の光景を起点にして、時期を経て進むべき道を決めていく。ピアニストか作曲家か、あるいは他の楽器に興味をもってその道のプロを目指すのか。いずれにしても、まずはピアノが身近にあるというのが基本的な出発点になるだろうことは間違いない。
 だが、武満徹が作曲家を目指したときはそうではなかった。生活苦に喘いでいた武満はピアノを有していなかった。
 戦後間もなくの16歳の頃に「ピアノに触れる機会のある仕事」を探し求めた武満は、横浜の米軍キャンプのなかにあったホールのボーイの仕事にありついた。ホールには、弾き手のいないグランドピアノが置かれていた。それに目をつけた武満は、夜、ボーイとして働き、昼間、このピアノを使って作曲に打ち込む。武満にとって都合の良い夢のような生活だったが、キャンプの接収解除によってピリオドが打たれている。
 それでも、武満は黙々と曲を作り続けた。
 武満は、著書『音、沈黙と測りあえるほどに』のなかの「ピアノ・トリステ」の冒頭に、〈ピアノという楽器には悲しい思い出がある〉と触れて、次のように記している。
〈いくつかの理論書を読み、いくつかの作品を書いた。しかし、私はピアノをもたなかったので、それがいったいどんなに響くものなのかを想像できずにいた。暗算するように、みすぼらしい音符のひとつひとつを頭のなかで追っていった〉

酷評された作品「二つのレント」

 やがて、武満は1台のピアノを借りられることになったが、生活苦のためにレンタル料が払えずに手放すことになる。
 手放すまでの間に「二つのレント」という作品を完成させ、新作曲派協会の演奏会に提出する。が、ある批評家から「音楽以前である」と酷評されて絶望する。
 このときの心境を、指揮者小澤征爾との対談(「音楽」新潮社刊)のなかでこう語っている。
〈目の前が真っ暗になって……。目の前にちょうど映画館があったから、切符を買って中に入って、真っ暗い中で、一人すみっこで(笑い)泣きたいだけ泣いてね、もうおれは音楽をやらなくてもいいと思ったの〉
 武満の作曲はほとんどが独学によるが、それでも恩師として名を挙げるひとりに清瀬保二がいる。出会いは、清瀬が書いたバイオリン・ソナタを聴いて感激した武満が、こんな先生に自分の曲を聴いてもらいたいと思い、自宅を訪ねたことに始まる。
 その日、清瀬は留守で夜遅くに帰ってきた。清瀬はそれまで待っていた武満が書いた譜面をピアノで弾いてくれた。
 このときのことを武満は喜びを噛み締めるようにこう話している。
〈そのころ僕はピアノなんか持ってなかったからね、弾いて貰えるだけでもうれしかった。弾きながら清瀬さんが「きれいな音だねェ―」と言ってくれたんだ〉
〈いつでも作品持っていらっしゃいと言われてうれしかった。尊敬している人に言われたんだから。初めての聴衆だろ、うれしかったな〉
「二つのレント」で酷評されたのは20歳の頃で、清瀬と会ったのは18歳の頃。
 武満は、作曲家をめざしたほとんどスタート地点で天国と地獄を見たのである。同時に、言葉というものの「過酷さ」を決して消え去ることのない無意識下に抱えることになったのではないだろうか。
〈いつでも作品持っていらっしゃい〉と〈音楽以前である〉。
 言葉は、ひとりの人間を救う福音にもなれば、絶望の淵に追いやる凶器にもなる。
 武満は、その生涯、執拗に探究した音と同様に言葉にも厳しくこだわっている。
 それは、私には、若かりし頃の2つの体験が、無意識的に大きく影響しているように思えてならないのである。

黛敏郎から送られてきたピアノ
 
 酷評によって絶望の淵まで追いやられた武満だが、曲作りはやめなかった。
 その後、結核で入院するのために借りていたピアノを手放さなければならなくなったのは23歳の頃。そして退院後、24歳の時に結婚している。結婚は相手の女性の献身的な愛のおかげだったのかもしれない。
 武満は後年、貧乏だから結婚した状態だったと自嘲気味に語っているが、音楽家になる夢は捨てていない。しかし、自宅にはピアノはおろか、楽器1本さえなかった。
 そんなある日、新婚生活を営むアパートに1台のピアノが届く。
 送り主はまだ面識のなかった作曲家の黛敏郎。
 ピアノがなくて困っている武満の話を芥川也寸志から聞いた黛が、余っていた1台を勝手に送ってくれたのである。
 後年、このときのことを、武満は黛に次のように話している。
〈運送屋の人が「黛さんという方から届けるように言われた」ってことで、青天の霹靂ですよね。いまだに、あのおかげで音楽家になっちゃったっていう思い出もあるけど恨みもあるかもしれない。(笑い)〉(1982年「週刊朝日」)
「恨みもあるかもしれない」の心の深層は謎のままである。
 
                                    2014年11月

<CDアルバム『赤木恵子「武満徹うた曲集」②ぽつねん〜さようなら』のブックレットに掲載>
 

稲積魁太(いなづみ・かいた)

出版社勤務を経てフリーランスのライターに。これまで、科学、歴史、哲学、心理学、音楽、スポーツなどの単行本の編集、執筆に数多く関わり、その過程で培った広範な知識を武器に、ひとつの枠にはまらない重層的物語巨編の創出をめざしている。

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