武満徹の「うた曲」と映画音楽の相関

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)
ノンフィクションライター

日本語をきたなくうたわせないように

 武満徹は、その生涯で数多くの曲をつくった。
 各種の著作資料によれば、その数は、交響曲、ピアノ曲、吹奏楽曲、室内楽曲、合唱曲、うた曲など150作以上、映画音楽、テレビ・ラジオの伴奏音楽などを含めると350作品近くになる。
 そのなかで「うた曲」は21曲、合唱曲は4作品。意外に少ないのかもしれない。
 どうしてなのか。
 武満が、合唱曲、うた曲の作品が多いといわれる作曲家・三善晃と対談(『武満徹対談集 創造の周辺』1997年刊/芸術現代社)した際、その理由の一端が語られている。
〈ぼくの場合、日本語をきたなく発音させることがまずなによりもこわい。きたなくうたわせるのがいやだということがあります。それともう一つは、詩を読んで、自分の想像が広がっていくわけですけれども、詩のもつそうした自由な働きかけを変に自分が限定してしまうことはこわいと思う。まあ単純な理由ですね。それと、怠惰なのかなちょっと。それに日本のいろいろな歌を聴いていても、好きなものが少ないです。つまりその詩と同じくらいにふくらんでいる作品というのがあまりないように思うわけ〉
 武満が、詩に慎重に対峙している姿勢がうかがえる言葉である。
 詩の世界を壊さずにマッチする音。音がつくことによってより以上の作品世界が広がる音。そうした音を紡ぎ出すための妥協のない努力。詩と真剣に対峙するからこそ、時間がかかる。必然的に作品が少なくなるのは当然の帰結なのだろうか。

スタジオにこもっての妥協のない音づくりを実践

 武満は共作を合わせて100以上の映画音楽をつくっている。少なくない数である。
 最初の1本は、佐藤勝との共作の「狂った果実」(中平康監督/日活/1956年)で、最後は1995年公開の「写楽」(篠田正浩監督/写楽製作所)である。武満が逝ったのは66年2月だから、生涯、映画音楽から離れられなかったといっても過言ではない。
 映画音楽で武満がその名を世界に知らしめたのは、1964年公開の映画「怪談」(小林正樹監督/にんじんくらぶ)でであった。
 この映画音楽を制作中の武満の仕事ぶりを目の当たりにしたのは音楽評論家の秋山邦晴だ。
たとえば、第2話「雪女」で、武満は尺八、石の楽器だけを使って吹雪の音楽をつくりだした。
 秋山はそのときの驚きを次のように記している。
〈尺八の音を録音して、それを回転を変えたり、電子変調したりしてモンタージュし、構成すると、まるで風が吠えていくような幻想的な音の空間がうみだされる。石の音を一センチきざみでそのテープを切り、その間に白味テープを入れて編集する。それを電子変調器にかけ、回転を速めて再録音する。すると、それはまるで吹雪が荒れ狂うような音に変質してしまうのであった〉(『現代音楽をどう聴くか』1973年/晶文社刊)
〈武満は実際の風の音は一切つかいたくない、あくまでも音をつくりあげて表現したいといっていた。自然の風の音は録音しにくい。そうかといって、よく使われている電子音でつくられた本物の風のような音、あれでは音の実体がない、というのである。そこで尺八だとか、石の楽器を素材に、まったく独自な創造された〝風〟の音楽をつくりあげてしまったのである。第二話全篇を通して流れるこれらの〝風〟の多様な表現は、この映像のリアリティにどれだけ強い働きかけをしているか、はかりしれないものがある〉(上掲書)
 このとき、武満は2か月にわたってスタジオにこもり、気の遠くなる作業を繰り返して驚愕の映画音楽をつくり出したのである。
 これは、武満の音づくりに関する執念のほんの一例にすぎないのだが、それでもその凄さを十分に伝えてくれている話ではある。

映画がらみが多い武満の「うた曲」作品

 武満が残してくれた「うた曲」は映画がらみの作品が多い。
 詩と向かい合って単発で曲をつくるのに慎重だった武満の背中を「映画」という大きな力が後押しした結果なのかもしれない。
『赤木恵子「武満徹うた曲集」②ぽつねん~さようなら』に収録されている11曲のうち、6曲が映画の主題歌や挿入歌、他にラジオ番組関連が2曲、テレビドラマ主題歌1曲、雑誌企画関連が2曲である。
 歌い手は、前作同様に過剰な技巧や装飾を排した歌い方に徹しているが、詩の内容や曲想によってさりげない変化で対応しているところが出色である。
 なお参考までに記すと、前作の『赤木恵子「武満徹うた曲集」』に収録されている10曲の構成は、映画音楽関係5曲(「MI・YO・TA」「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」を含む)、テレビドラマとラジオドラマが各1曲、舞台関係1曲、その他2曲である。
 前作と今作を合わせて21曲。これが武満の「うた曲」である。この後、未発表の楽譜が発見される可能性もあるが、現状での全「うた曲」である。
 この21曲には、音づくりにこだわり、詩と真摯に向かい合った武満の魂が込められているといっても決して言い過ぎではない。
 その武満の魂に、歌い手が真摯に向かい合うことによってつくられたのが、前作と今作の2枚の『赤木恵子「武満徹うた曲集」』だといえるのではないだろうか。 

                                       2014年11月

<CDアルバム『赤木恵子「武満徹うた曲集」②ぽつねん〜さようなら』のブックレットに掲載>

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)

出版社、専門新聞社勤務を経てフリーのライターに。共著に『哲学・思想がわかる』『世界の神話がわかる』『日本人の起源の謎』(以上、日本文芸社)『哲学サミット』(角川春樹事務所)『ボクサー 世界戦に敗れた者たちの第二ラウンド』(アドリブ)『東京ジャズ喫茶物語』(アドリブ)など。電子書籍に『哲学の可能性〜哲学で何が救えるか?』『漂流する日本人、行き詰まる日本』(以上、島燈社)がある。

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