ボクシングについて静かに考えてみた

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)
ノンフィクションライター

第1回 ボクシングは芸術である

 
❶ボクサーの動きは様式美そのものである
様式美は心技体の究極のバランスによって表現可能になる

 リング上で殴り合っている2人の男の姿は、それを見る者の目にはどのように映るだろうか。
 原始的な野蛮な姿に映るかもしれない。そしてそれは大事な頭部をも殴る対象にしているがゆえに危険を伴っていることはすぐにわかる。
 しかし、よく観察してみると、リング上で闘っているボクサーの動きには様式美が備わっている。あたかも一定の法則に従っているかのような計算された動きが見える。この様式美が崩れたボクサーほど相手のパンチを受けて敗北する確率が高くなっている。様式美が崩れるのは、身体がいうことをきいてくれなくなるからだ。上体の動き、フットワークが悪くなる。相手のパンチをかわせない。ダメージが蓄積する。すべての歯車が狂って負のスパイラルに陥っていく。
 それは、人間が単なる機械ではないことを証明しているのでもあるが、美が崩されはじめていくと、最後には破壊が訪れる。
 身体が動かなくなる大きな原因は三つある。
 身体的持久力の不足、打たれ過ぎによる疲労の蓄積、平常心の喪失。いずれも日頃のトレーニングと関係している。
 逆説的に言えば、十分なトレーニングによるスタミナの保持、技術、そしていかなるときでも冷静な判断ができる精神、この三要素を高レベルでバランスよくもっているボクサーほど、リング上では有利に闘えるということを意味している。
 すなわち、心技体の充実だ。三要素は連環になっている。どの要素が欠けても破綻をきたす。
 スタミナをなくせば、高度な技術をもっていても使えなくなる。平常心を失った過度な緊張や気負いは身体の動きに微妙な影響を及ぼし、せっかくの技術をもぎこちないものにしてしまう。
 これはどのスポーツにも言えることかもしれない。が、バランスを崩すと直接的に身体に危険がおよぶという意味では、ボクシングは他のスポーツと一線を画している。ボクシングは、中途半端には取り組めないスポーツなのである。
 人間は滅びるとわかっている美に狂喜する。ボクシングに潜んでいる滅びの美学に、人は無意識のうちに惹きつけられているのかもしれない。 

❷様式美を生み出す過酷なトレーニング
トレーニングによる心技体の充実が不純な動機を忘れさせる

 ボクサーは、自らに過酷なトレーニングを課さなければならない。鍛錬を怠ればその報いはリング上で受ける。勝利につながる様式美を獲得するために必要なもの、そのほとんどはトレーニングによってもたらされる。元ボクサーで後に小説家になったジョージ・ギャレットはこう語っている。
「あまりにも自己修練が要求され、技術が関与するようになり、そして自分がもともと持っていた動機の他にあまりにも多くのことに集中しなければならないので、そのもとの動機は、少なくともほとんどぼやけてしまい、たいていは、忘れ去られるか、完全に失われてしまう」
 あるボクサーは、誰か憎らしい奴に一発パンチをぶち込みたいがためにボクシングを習い始めた。幼い頃にいじめにあったが、そのときの心身的な劣等意識を克服するためにボクシングを始めた者もいる。
 ボクシングを始めた動機、目的は、それぞれ、いろいろあるだろう。しかし、過酷なトレーニングを積むうちに、その不純な動機、目的などどうでもいいようになってくる。心技体の充実が、不純な動機、目的を無化していくのだろう。
 ギャレットは、こうも記している。
「多くの優秀な、そして経験のあるボクサーたちは、(よく指摘されるように)優しくて、親切な人間になる……。彼らは、自分の闘いのすべてをリング上に置いてくる習慣を持つ。そして、そこ、リング上においてさえも、怒りの力に訴えすぎるのは危険なのだ」
 ボクシングはスポーツなのである。
 最も危険ではあるけど、厳格なルールに基づくスポーツである。喧嘩では決してない。
 ゆえに、高度な技術と平静な心を維持した者にこそ勝利の女神は微笑む。

❸ファンを魅了するのはKOシーンだけではない
歴史に残る名勝負だった世界チャンプ同士の小林弘VS西城正三戦

 鍛え抜かれた者同士の試合は美しい。
 ある作家は、高度なテクニックに支配された試合をボクサー間の対話だとした。対話には言葉が必要だが、この言葉は洗練されていなければならない。
 ボクサーにとっての洗練された言葉とは、反射神経とテクニックに他ならない。この洗練された言葉こそが、観客に対するボクサーの回答なのだという。
 それでも、勝敗は決する。
 観客はハードパンチャーのKO勝ちを望むが、いつもいつも望むとおりにいくと限らない。
 1985年8月21日のWBA世界ジュニア・ウェルター級タイトルマッチ。ハードパンチャーでチャンピオンのビリー・コステロが、無名の挑戦者ロニー・スミスに大差の判定で敗れ去ったのである。
 この試合で、スミスは、ボクシングは知的ゲームの側面をもつことを証明したといわれている。スミスは、雑誌のインタビューで「チェスのゲームをモデルにした」と語り、四角いリングの上を円にたとえ、この円の広がりをコントロールし、支配した者が勝つとしたのだ。
 日系三世で屈指のハードパンチャーだった藤猛は2回KOでジュニア・ウェルター級の世界タイトルを奪取し、リング上で「ヤマトダマシイ」「岡山のオバアチャン」などの片言の日本語をしゃべって人気を博した。藤のパンチは、当たれば相手は必ず倒れる「ハンマーパンチ」として恐れられた。
 しかしそれは、あくまでも相手に当たれば、だった。
 1968年12月12日、2度目の防衛戦でアルゼンチンの屈指のテクニシャン、ニコリノ・ローチェの前に、藤の強打は空しく空を切り続けた。そして遂に動けなくなった。10回、ゴングが鳴っても藤はコーナーから出てこなかったのだ。公式記録は、10回5秒KO負けになっている。
 日本人同士での最高の試合は、1970年12月3日、当時、共に世界チャンピオンだった、ジュニア・ライト級の小林弘とフェザー級の西城正三のノンタイトル10回戦である。
 西城は海外修行中に、KOで世界王座のベルトを奪取しシンデレラボーイといわれた。しかし,ただのシンデレラボーイではない。無名のまま海外に出ての快挙だから,並の精神力の持ち主ではなかったはずだ。一方の小林は苦労の末に頂点にたどり着いた雑草のボクサーと形容されていた。
 下馬評では、実力の小林、人気の西城。日本人で初めて海外でチャンプに上り詰めた人気の西城に期待する声が強かったが、試合ではその分だけパンチが空を切った印象を与えた。小林は、西城のパンチを皮一枚先できれいにかわしたのである。
 結果は、2-1で小林の判定勝ち。
 凡戦ではなかった。
 時間が短く感じられた息詰まる名勝負だった。

❹究極の芸術、試合は派手な舞台装置を無意味にする
ガウンは着ず、靴下を穿かなかったマイク・タイソン

 リングへのボクサーの登場の仕方が過剰に演出されるようになってきている。テーマ曲が流され、花道を進むボクサーの周りでは派手な幟がひらめく。
 後楽園ホールの花道は短いので、演出は一瞬にして終わるが、さいたま市のスーパーアリーナなどの大会場で行われる世界タイトルマッチ級では、手の込んだ演出が見られる。
 観客を楽しませる意味で、あるいは、試合の期待感を高める意味では有意義な演出なのだろう。また、闘いに臨むボクサーを支え、応援している人たちにとっては自分たちの意気込みを表現するという意味では納得できる行為なのだろう。
 しかし、どんなにユニークな演出がなされようと、肝心の試合がつまらない凡戦であったならば、派手な演出はただ浮き上がってしまうだけの滑稽なものになってしまう。
 凡戦に対するファンの反応はシビアである。
「そんなつまらないものに金をかけずに、いい試合を見せろ」という捨て台詞が残されないとも限らない。
 実は、好試合とは、試合以外の舞台装置、パフォーマンスを忘れさせてくれる試合のことをいうのである。
 パフォーマンスを無化してしまう試合。
 派手さとは対照的に原始的な荒々しい出で立ちで自身のキャラクターを強烈に印象づけたのはマイク・タイソンだった。
 ガウンは着ずに、まるで襤褸切れのような貫頭衣をつけただけでの登場。シューズは、靴下をつけずに履いていた。「俺の試合にはつまらない演出は不要だ」と言わんばかりだった。
 事実、小柄だが、ヘビー級では出色のスピードとパンチ力を誇ったタイソンは、一時代を築いたスターだった。

❺極上の一戦は、バッハの曲を完璧な演奏で聴くようなもの
世紀の一戦、ハグラーVSハーンズ戦はわずか3回で勝負がついた

 ボクシングの試合は、メインイベントの前に数試合の前座がある。4回戦、6回戦、8回戦、10回戦、そして世界タイトルマッチは、現在、12回で闘う。かつては、東洋タイトル戦が12回で、世界戦が15回だった。
 アメリカの女性作家ジョイス・キャロル・オーツは、こう語っている。
「ありふれた前座試合から、ジョー・ルイス対ビリー・コン、ジョー・フレージャー対モハメド・アリ、マーヴィン・ハグラー対トーマス・ハーンズのような「世紀の一戦」に目を向けることは、ポロポロとかきならされるギターをぼんやり聞くことから、完璧に演奏されたバッハの『平均律クラヴィーア曲集』を聞くことへと、移行するようなものであり、それもまた、物語の神秘の一部なのだ」
 だが、演奏が最後まで続けられるとは限らない。
 一瞬に、予期しない形で終わる場合もある。
 試合には、決められた楽譜はない。
 だから、ボクシングの試合は、クラシック音楽よりは、ジャズのアドリブにたとえたほうがいいのかもしれない。
「名演あって名曲なし」がジャズの真髄。
 曲が問題ではない。
 その曲を演奏者がどう料理するかがすべてなのだ。
 1985年4月15日、ミドル級のハグラーとジュニア・ミドルのハーンズの世界チャンプ同士の一戦。タイトル11度防衛のハグラーは30歳で、「ヒットマン」の異名でkO率8割強を誇っていたのが24歳のハーンズ。
 類を見ない細身の体型で人気者だったハーンズだが、3回、マットに沈んだ。
 演奏は、あっという間に終わってしまったのだ。
 しかし、その演奏にケチをつける者はいなかった。

鰆木周見夫(さわらぎ・すみお)

出版社、専門新聞社勤務を経てフリーのライターに。共著に『哲学・思想がわかる』『世界の神話がわかる』『日本人の起源の謎』(以上、日本文芸社)『哲学サミット』(角川春樹事務所)『ボクサー 世界戦に敗れた者たちの第二ラウンド』(アドリブ)『東京ジャズ喫茶物語』(アドリブ)など。電子書籍に『哲学の可能性〜哲学で何が救えるか?』『漂流する日本人、行き詰まる日本』(以上、島燈社)がある。

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