いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜
第1回/工藤茂
反原発メモ
1980年ごろだったと思うが、正確には1978年か79年かもしれない。東京大学駒場校舎(教養学部)で夜間に行われていた宇井純の「公害原論」の講義に通い始めた。自主講座「公害原論」が始まったのは1970年、本郷の工学部校舎だった。その後、講座は駒場へと移って1977年から1986年まで続いたので、ぼくはずいぶん遅い受講生ということになる。
当時宇井純は工学部の助手で、教授の許可なしには学生に講義をできない立場だった。しかし、市民を相手の講義であればそういうわけでもないのだが、夜間、大学校舎に一般市民を集めて講義を行うところに問題があった。前例のないことで容易に許可が下りるとも思えなかったらしいが、総長加藤一郎の判断で許されたという。
「公害問題は科学技術だけの問題では収まらない。政治、経済、司法にまでおよぶ」という宇井の主張どおり、講義の内容は広範囲にわたるものだった。おかげで、本当に世間知らずのぼくの眼は社会へと開かせてもらった。
講義のなかでは原子力発電についても取り上げられ、その未完成な技術、危険性、使用済み核燃料の問題について詳しく解説してくれた。そして、早くから原発について警鐘を鳴らし続けている信頼できる専門家として、高木仁三郎と水戸巌をあげた。
高木仁三郎らの原子力資料情報室は1977年に立ち上げられていて、「公害原論」の教室にも情報室の人々が毎回やって来てさまざまなチラシやパンフレットを配っていた。ぼくはそのころにもらった原発の危険性を解説した小さな20ページ程度の冊子を3種類保管していたのだが、何度か引っ越しているうちに処分してしまったらしい。
2011年3月12日、大地震の翌日、Ustreamで中継されていた原子力資料情報室の記者会見に、仕事そっちのけでかじりついていたが、まさにその中継の最中に福島第一原発1号機が爆発したという知らせが飛び込んできた。それからは原子力資料情報室の中継を見るのが日課となった。これらはいまでもアーカイブ映像(You Tube)として、原子力資料情報室のHPで見ることが可能なようだ。
一方、真っ先に現場へ急行したのがフォトジャーナリストの広河隆一、豊田直巳らのグループで、13日には福島第一原発から3キロ地点まで近づいたが、1,000マイクロシーベルトまで計測可能なガイガーカウンターは瞬時に振り切れた。その模様はすぐ13日の原子力資料情報室の記者会見で紹介され、ほどなく動画サイトにも載せられた。
原発関連のTV番組などでは、高木仁三郎についてはよく語られるが、水戸巌について触れられることはない。両氏とも東京大学原子核実験所に所属していて、宇井とは若干畑は違えども同じ工学部、ほぼ同年代で親しかったという。全共闘の嵐をへて、高木仁三郎は都立大学へ、水戸巌はしばし時をおいて芝浦工大へ、宇井は東大に残り市民を相手に「公害原論」を立ち上げた。その後、宇井は沖縄大学へ教授として招かれることになったため、1986年早々に閉講させ、4月からは沖縄へと活動拠点を移した。ぼくはそれに最後まで付き合った(最終講義は1986年2月5日、本郷の校舎だったように記憶している)。
宇井が東京を去った年(1986年)の暮れ、新聞で山の遭難が大きく報じられた。そこに水戸巌の名前があることに気づき驚いた。二人の息子たちと剣岳に向かい、北方稜線で遭難したという。冬の剣は容易ではない。あの水戸巌が山男とは知らなかったので確認を急いだが、詳しく記事を読むうちに同一人物と確信した。
いまはインターネットのおかげで水戸巌の活動についての情報が入手可能になった。救援連絡センター設立の中心となったのも水戸のようだし、第一原発事故以降メディアに登場する機会が極端に増えた京都大学の小出裕章は、入学した東北大学原子核工学科の講義に絶望して、東京大学にいた水戸巌を訪ねて教えを請うたという。
2012年6月20日の「朝日新聞」のweb版で「反原発の遺志、今こそ声に 運動草分け故・水戸教授の妻」という記事を偶然見つけた。
〈以下、引用〉
反原発の遺志、今こそ声に 運動草分け故・水戸教授の妻
放射線専門家として、日本の反原発市民運動を引っ張った大学教授が25年前、雪の北アルプスで53歳で遭難死した。残された妻は、東日本大震災を機に長年の沈黙を破った。夫の遺志を継ぎ「反原発」を叫び、「科学者よ、声を上げよ」と訴える。
17日、福井市。大飯原発再稼働抗議デモの列に水戸喜世子さん(76)はいた。「再稼働反対」のはちまきを巻き、自宅のある大阪府高槻市から駆けつけた。
夫は、芝浦工業大教授だった水戸巌さん。1970年代初めから、反原発運動の草分けを担った放射線物理学者だ。
■圧力にも毅然
お茶の水女子大で物理を専攻する学生だった頃、物理学の勉強会で東大生の巌さんと出会い、60年に結婚した。「私のひとめぼれよ」と振り返る。
全国の原発を訪ね、付近で落ち葉を採取して放射線データを集めた夫。正体不明の嫌がらせは日常茶飯事だった。切断された指が送られたり、「命があると思うな」と電話がかかったり。それでも毅然(きぜん)としていた。3人の子の安全のため、喜世子さんは関西に移り住んだ。
東大の卒業証書より冬山登山講習の修了証を大事にするほど夫は山を愛した。父の背中を追いかけて物理の世界に進んだ京都大院生の共生(ともお)さん、大阪大生の徹(てつ)さん(いずれも24)の双子兄弟とともに、幾つもの頂を目指した。86年末、「これが最後」と北アルプス・剣岳を目指し、消息を絶つ。警察が打ち切った捜索を仲間が続け、翌夏3人の遺体は順次見つかった。
巌さんは、日本原子力発電東海第二発電所(茨城県)の原子炉設置許可処分取り消しを求め、73年に住民が提訴した訴訟では住民側証人として「事故が起きたら被害は東京に及ぶ」と訴えた。チェルノブイリ原発事故(86年)後の集会では「原発事故は長期間身体に悪影響を残す」と声を荒らげた。
訴えをよそに、日本は原発大国への道を突き進む。そして、東日本大震災。巌さんの郷里、福島県新地町も被災した。
「水戸さんが生きていたら、嘆かれたろう」。「子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク」の山田真医師は講演でそう悔やんだ。小出裕章・京都大原子炉実験所助教も、「原子力の正体を教えてくれた人」と評す。
■26年経ち投稿
チェルノブイリ直後、山で命を落とす半年前の86年6月10日付朝日新聞「声」欄は巌さんの意見を掲載している。「こんな危険を目のあたりに見ながら、『引き返せない』ほど、人類はおろかなのであろうか」
26年たった今年5月1日付の同欄には喜世子さんの名があった。「政治家は科学者の声に耳を傾けよ。科学者には、その職責がどれほど重い社会的責任を伴うかを自覚してほしい」
昨年3月11日を境に閉じていた心のふたが外れた。「おまけの人生、彼らが生きていたらするであろうことをする」。敦賀原発直下に活断層がある可能性を報じた記事を読み、投稿を決意。遺影に語りかけ、涙があふれた。「あなた、黙ってないで早く出てきてよ」
17日のデモには全国から2200人が参加した。個人参加の若者の姿が多かったのがうれしかった。「まだ希望はあるかしら」。そう報告すると、写真の夫は「そうだな」と笑っているようにみえた。(宮崎園子)
〈引用終わり〉
2012年7月20日夜、小雨のなか、ぼくらは何度目かの首相官邸前の反原発抗議行動の帰りだった。永田町の駅に向かって歩くぼくらの目の前に、雨合羽にゴム長姿の70代くらいの小柄な女性がひとり、とぼとぼとうつむき加減で駅へ歩いている姿があった。どういう思いを抱いて、たったひとりで雨の夜の抗議行動に来ているのであろうか。 (2012/08)
[追記]
この稿の題名は、震災直後の2011年4月20日付で発表された中山千夏「私のための原発メモ」に触発された。「私のための原発メモ」は、いまもネット上でだれでも読むことができるし、申し込めば冊子も送ってもらえるようだ。
自主講座「公害原論」の経緯については、宇井純『公害自主講座15年』(亜紀書房、1991年〈のち『自主講座「公害原論」の15年』に改題〉)や追悼文集、宇井紀子編『ある公害・環境学者の足取り』(亜紀書房、2008年)に詳しい。
水戸巌と奥さんについては、「朝日新聞」に続いて、原発事故報道で大活躍した「東京新聞」2012年9月18日付「こちら特報部」欄でも、大きくスペースを割いて紹介された。奥さんは、現在暮らしている大阪の高槻から首相官邸前のデモにもやって来ているという。 (2012/10)
<2012.11.17>