いま、思うこと40 of 島燈社(TOTOSHA)

工藤40/P6120070.JPG

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第40回/工藤茂
戦争反対のひと

 鶴見俊輔に『悼詞』(編集グループ〈SURE〉、2008年)という本がある。偶然図書館でみつけてそのまま借りたのだが、書店では扱っていないようだ。
 編集グループ〈SURE〉のホームページにある案内には「逝く人、125人の知人・友人に贈った鶴見俊輔、半世紀にわたる全追悼文集」とある。もちろん両親、姉の鶴見和子、従兄の鶴見良行もふくみ、そうそうたるひとびとにあてての追悼文集に仕上がっている。
 とくに鶴見和子の項では、ベッドでの死の間際、88歳になる姉が84歳の弟に向かって「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」と問いかけ、弟は返事をしなかったという逸話が紹介され、ギクリとさせられる。その鶴見俊輔も2015年7月、93歳で逝った。
 この本にはおやっと思わされる名がたくさん登場するが、それは鶴見俊輔本人や追悼文の相手に関するぼく自身の知識の浅さからくることであって、当然のことである。
 串田孫一もそんなひとりである。このふたりにはまったく接点がなかったとは思わないが、生涯で二度会っているらしい。串田はぼくにとっては山の随想のひとだが、両氏とも哲学のひとであり、串田はフランス哲学が本分であることを忘れてはいけない。串田についての一節を引いてみる。
 「戦争万歳と書かない人は、著述家の中でも珍しい時代に、私は生きてきた。ある日、串田孫一の戦争万歳の文章を読んだことがないと思いあたった。こういう人は珍しい。それ以来、彼の文章を見つけるごとに読んできた」「この人が、戦争反対の側に立ち続ける人だということ(中略)を知った」「長い戦争の時代を通じておなじ方角に向いていた。そのことが、(中略)私を彼に結びつけ、私を彼のかわらぬ読者としてきた」
 『共同研究 転向』全3巻(思想の科学研究会編、平凡社、1959〜62年)をまとめた鶴見俊輔らしい捉え方なのであろうが、この文章では鶴見が串田のどこから「戦争反対の側に立ち続ける人」と思ったのか明確にされているわけではない。
 ぼくは串田孫一のよい読者ではない。手元にある本も山関連のもの10冊ほどであろうか。ぼくの思うところ、串田は「戦争万歳」のひとではないだろうが、そういったことにはあえて触れないひとである。久野収に向かって「政治のことはお前に任せるよ」と言っていたという夫人の証言もある(『こころ』Vol.13、2013年6月、平凡社)。しかし鶴見が指摘するように、強い意志をもって「戦争反対」のひとかどうかは確信がもてない。そんな折、加藤周一『「羊の歌」余聞』(ちくま文庫、2011年)を読んだ。そしてついでに『羊の歌』(岩波新書、1968年)も引っ張り出した。
 太平洋戦争が始まったころ、加藤周一は東京帝国大学医学部の学生だった。彼は医学部でありながら、仏文学の講義を聴いたり仏文研究室にも出入りしていた。加藤の父が渋谷の開業医で、仏文研究室の主任教授辰野隆の主治医だったことから、父を通じてお願いしたものだ。授業が終わったあと、大学の向かいにある喫茶店「白十字」に辰野教授をはじめ、鈴木信太郎教授、渡辺一夫助教授、中島健蔵講師、助手2名、学生数人、ときには英文学の中野好夫助教授らもつどって一種の文化サロンになっていたという。そのなかに加藤周一も加わっていた。面白いのは、白十字での会話は外に漏らさないという約束があったわけではないが漏れたことがないという、確実に信頼できる関係があったという点である。
 当時の話題の中心は戦争であって、必ずしも全員が戦争に批判的だったわけではない。辰野隆をはじめ、個性的なそれぞれがどんな発言をしていたのかなかなか面白い場面なので、ぜひお読みいただきたい。
 加藤周一は戦争や権力に対する態度に関してもっとも強い影響を受けたのが渡辺一夫だという。渡辺は戦争の嫌いな学生を集めて話をしていたというが、のちに加藤も加わった。加藤は渡辺について記す。「戦争中の日本に天国から降ってきたような」ひとで、それは「軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場をもとめていた」わけではない。「日本社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていたのであり、自分自身と周囲を、内側と同時に外側から、天狼星の高みからさえも、眺めようとしていたのであろう」

 時は少々さかのぼる。1932年に串田孫一は旧制東京高校へ入学し、翌年留学先のフランスから帰った教授の渡辺一夫と出会う。串田は東京帝大文学部哲学科へすすみ、渡辺は同じ東京帝大文学部仏文科講師として移り、師弟関係は生涯つづく。加藤周一が描く白十字時代、4歳年長の串田は哲学研究室副手(週3日)となっていて、上智大学予科講師(週1日)、フランス語専修学校でフランス語も教えて(夜間)もいたようだが、これらがどの程度重なっていたのかよくわからない。
 串田孫一『日記』(実業之日本社、1982年)は、1943年から46年の日記から抜粋してまとめられたものだが、2年前にはじめて読んだ。幼馴染みのような戸板康二や哲学研究室の同僚だった山崎正一、森有正の名はよく登場するが、生涯の師渡辺一夫との付き合いはより濃く、学内よりも互いの家を訪ねたり、葉書・手紙のやりとりも頻繁である。
 加藤周一の『羊の歌』には串田の名はなかったが、串田の『日記』にも加藤の名も白十字も登場しない。そして『日記』には米軍機がしきりに上空を飛び、警戒警報のなかでの次のような記述がある。原文の旧字は新字に改めた。
 「私はこれまで戦争のことを書かなかった。故意に書かずにいたわけではなく、書く気持が湧いて来なかった。それに書いてみようとしても、いざとなると非常にむつかしい。だが口では何とでも言っても、戦争についての自分の本当の態度はうっかり外へは出せない。それを書いて置く必要を感じ始めた。その必要とは、仮令そこから思いがけない禍いを招くようなことがあろうとも、本当の気持を何処かに書いて置かないと、それを証明することも出来なくなってしまう」(1944年12月3日)
 「それにしても、戦う国民はどうしてここまで単純になれるのだろう。右を向け。さて右を向けという号令がかかった。それに従いさえすればどんな罪悪も償われる。それでは皆右を向く。国民はもう否応なしに囚人の如く軍隊の如く進んで行く。何処からも『待て』の声はかからなくなる。自分の内からもその声は発せられない。しかもこの大行進はそれ程景気がよさそうに見えていて、実はそんなに根強いものではない。まことに奇妙な行進である。歩調は高く勇ましいが、何処かへ消えて行くような夢の行進である」(1945年6月26日)
 「何しろ行進する人の数は万を遥かに越えて億だという。本当にそうなのかとは思うが、私はこの行進に対して何一つ邪魔をした覚えはないし、忠告してみたくとも、皮肉を言いたくとも、黙っていたし、小石を投げたことも勿論ない。だから恰も存在していないものの如く、或はその行進に当然加わっているものの如く扱って貰えたのである」(同前)
 「国家は国民を、何段もの構えを作って諦めの訓練をさせ、何が起ころうとも、何でもないような、驚かないような人間を養成している。それは私の方が先にちゃんとその訓練を済ませている。願うところは寸分も違わない。ただ人々が何一つ苦労せずに、知らず識らずのうちにそうなって仕舞っているのと一緒にされてはどうも面白くない」(同前)
 1944年3月22日の項には上智大学を免職されたことが記されているが、その理由について触れていない。「満天星[どうだんつつじ]」(『花火の見えた家』創文社、1960年所収)に、「週に一度通っていた上智大学も、教練の配属将校と言いあったのが恐らくもとで首になった」と明かされている。
 串田孫一は加藤周一のように、渡辺一夫から受けた影響を明確に記していないように思うが、18歳からの師弟関係である。薄っぺらなものでおさまるはずがない。渡辺は串田を「大人しい」と記しているが、そんな串田と配属将校との言いあいも、渡辺という精神的な支えあってのものではなかろうか。『日記』のあちこちには、戦争さえなければという悔しさが吐露されている。これは串田の山の随想ばかりを読んできたぼくにとって新鮮なことだった。

 串田孫一の『日記』刊行から10年以上も過ぎて、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社、1995年)が刊行された。パリで購入した小さなノートに、1945年3月11日から8月18日まで45ページにわたって記されたものだが、大部分はフランス語で書かれていた。日本語で書き残すことの危険を感じていた。
 「敗戦日記」の章は Lasciate ogni speranza というイタリア語で始まる。ダンテ『神曲』地獄篇第三歌に登場する地獄の門に記された言葉の一部、「一切の望みを棄てよ」である。
 「この小さなノートを残さねばならない。あらゆる日本人に読んでもらわねばならない。この国と人間を愛し、この国のありかたを恥じる一人の若い男が、この危機にあってどんな気持で生きたかが、これを読めばわかるからだ」(1945年6月6日)、「生きねばならぬ、事の赤裸々な姿を見きわめるために」(同年7月11日)
 このような強い決意が何度も記されると同時に、「酒を飲みたし! 酔いつぶれたし!」(1945年7月14日)というものや自殺や死をほのめかす言葉もまた何度も記され、揺れ動く心があらわにされている。串田の『日記』には、この時期の渡辺の鬱状態とも思える様子が感想もなく事実のままに描かれている。
 実生活の串田孫一は政治的なことを口にすることもなく、選挙の応援を頼まれても応じることはなかったというが、ほぼ同時代を生きてきた鶴見俊輔にはその思いがよくみえていたのかも知れない。

 新年早々「日本の美懇談会の稚拙さ」という記事を見た(『東京新聞』2016年1月16日付)。日本の美懇談会は正式名称を「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」といい、日本文化の海外発信について提言する安倍首相直轄の有識者会議だという。座長は俳優の津川雅彦。日本映画の世界市場開拓の一作目として提案したのが「天孫降臨」の映画化である。
 この懇談会が昨年10月に発足したときは小さな報道だった記憶がある。今回の記事には「メンバーの構成は首相との『お友達』色が濃い」とあるが、そのなかに俳優・演出家の串田和美[かずよし]の名があった。串田和美といえば自由劇場、1960年代の小劇場ブームの立役者として知られているが、串田孫一の長男である。
 先に引いた『日記』にも和美の幼い姿が頻繁に登場する。戦時末期に山形県の新庄に疎開した頃はまだ2、3歳だが、両親とともに河原や森で焚木を拾う姿が描かれている。串田孫一の長男がどうしてという思いはあるが、なにか勘違いでもしたものであろうか。もしや日本会議の会員ではあるまいかと調べてみたが、会員名簿は公開されていないようだ。 
 今回は、敬称をすべて略させていただいた。 (2016年2月)



<2016.2.12>

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon

工藤40/01.jpg鶴見俊輔『悼詞』(編集グループ〈SURE〉、2008年)

工藤40/02.jpg加藤周一『「羊の歌」余聞』(ちくま文庫、2011年)、同『羊の歌』(岩波新書、1968年)

工藤40/03.jpg串田孫一『日記』(実業之日本社、1982年)、串田孫一・二宮敬編『渡辺一夫 敗戦日記』(博文館新社、1995年)