いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜
第39回/工藤茂
原発の行方
暮れの12月24日、福井地方裁判所(林潤裁判長)は、同年4月14日の同裁判所(樋口英明裁判長)が申し渡した関西電力高浜原発3号機・4号機の運転差し止め決定(仮処分命令)を取り消し、住民らの申し立てを却下する決定を下した。これと同時に、関西電力大飯原発3号機・4号機についても、再稼働しないよう求めた住民の申し立てを退けた。
予想されたこととはいえ、あまりにも筋書きどおりで呆れ果ててしまいそうだった。裁判所といえども官僚組織の外にあるわけではない。「三権分立」など夢物語にすぎないのであろうか。
ところで、この2日前の22日に妙な動きがあったことを覚えているだろうか。福井県の西川一誠知事は高浜原発3号機・4号機の再稼働同意の記者会見を行った。繰り返すが、裁判所の決定のわずか2日前のことである。この動きをどう読み取ったらよいのであろうか。仮に事前に政府側から裁判所の決定を含めて指示があったとしても、裁判所の決定をうけての同意表明でもよさそうなものだが、なぜ直前に行ったのか理解できない。いずれにしろ、今年は原発がどんどん再稼働されることになるのかもしれない。
2011年3月の福島第一原発3号機大爆発のシーンは忘れようにも忘れられない。しかしこの国の為政者たちにとっては、航空機事故のようなもののようだ。事故が起こったところで一時的には大騒ぎになるのだが、数年で収まる程度のものでしかない。まして放射線が原因による被害など容易に確定できるものではないのだ。ほとぼりが冷めたら当然のように再稼働に取りかかる。いまの日本はまさにこういう状況ではないだろうか。
「いまだ危険なイメージが消えない福島への誤解」(『ダイヤモンド・オンライン』2015年12月25日、26日、28日付)という記事を読んだ。竜田一人氏(原発作業員・漫画家)と開沼博氏(社会学者)の対談である。
ぼくはどちらの方についても詳しくはない。竜田氏については原発ルポ漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』全3巻(講談社、2014年)が評判になった程度のことは知っているが、2012年から第一原発の廃炉作業員として勤務しているという。開沼氏についてはまったく知識がなく、「ウィキペディア」によると、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」地域復興支援担当・センター特任研究員である。2006年から浜通りの原発立地自治体の状況について研究していて、震災後も継続的にフィールドワークを行っているという。
こういった経歴のふたりが、事故後まもなく5年になる福島、あるいは福島第一原発のいまを語り合っている。
開沼氏の発言のなかに、震災後5年に向けて福島の復興は遅れているという論調の報道になっていくと思われるが、そういうマスコミには「遅れているのはあんたの頭だよ」って言いたいくらいだというものがある。竜田氏も、建屋が崩れそうだ、「何か起こったらヤバイ」状況はすでに過去のものだと述べている。もう少し詳しくまとめてみる。
汚染水の浄化システム(ALPS)の稼働も順調で、濃縮されたストロンチウムの入った汚染水の処理も終わり、仮に流れ出たとしても問題のない数値だ。汚染水漏れで問題となったフランジ型タンクは溶接型の大きなタンクへとつくり変えられ、遮水壁も完成、汚染水の漏出はほぼ問題ない状況。タンク内の膨大な汚染水に含まれるトリチウムの処理の問題があるが、個人的には海に流してもよいと考えている。残るは廃棄物問題で、防護服など5年間廃棄できずに備蓄しているものの処理、さらに原子炉のなかのデブリの問題など、徐々に研究しながらやっていくしかない(竜田氏)。
米の生産量が震災前比で85%まで回復しているものの、流通価格は作物によって3割、4割程度まで大幅下落したまま。福島の海が汚染されたのは事実だが、いまセシウムが検出される魚は震災前から生きていた魚くらいのものなのに「全体がダメで、今後も危ない」といった報道がされてしまう。米の全量検査にかかわっている人は、全袋が検出限界値以下(ND)とわかっているのに、それでも無駄な検査を続けることになる。それは住民感情や無理解が作っているコストである。また、事故の風化以上に圧倒的に風評の問題が懸念されるが、今後も風評被害は続く。失業、倒産、孤立死の増加など、大きな社会問題になる。伝える側だけの問題ではなく、視聴者や読者もわかりやすいセンセーショナルな話題を求めている。「不幸なフクシマ」のままでいてほしいひとたちが多い(開沼氏)。
また、「福島にはひとが住めなくなる」と言っていたひとがたくさんいた。だれがどう言ったのか、実際どうなったのかをこのタイミングで検証すべき(竜田氏)。開沼氏はそれを受けて、事故当時、社会学者、宗教学者などデマの拡散に加担したひとがいたのは許しがたいことだと応じている。
そして編集部は次のようにまとめている。「当初予想された、最悪の事態は非常に多くの人の努力で回避された。(中略)しかし、放射能や放射性物質への無知や過度の恐怖感に駆られて、本来なら回避できたはずの人命損失や経済的・社会的な損失が、この5年間で膨大に生まれた。避難生活のストレスなどによる震災後の死者(震災関連死)は高齢者を中心に2000人近く出ている」
毎日流される記事のなかには、政府や財界の意向をうけて書かれるものがあることは承知のうえだが、ぼくはこの記事をまったくの嘘とは思わなかった。しかし新聞で眼にする内容とはだいぶ違う部分もあるという感想を抱いたこともたしかだ。
たとえば『日本経済新聞』(電子版、2016年1月4日付)には、汚染水の増加に歯止めをかけるために東京電力が計画している「凍土壁」の整備を、原子力規制委員会が安全性の面から承諾しないという記事がある。『東京新聞』(2016年1月6日付)には、高濃度汚染水の処理の際に出る廃液の貯蔵容器で、水素ガスの発生のために、セシウムが1リットルあたり1万ベクレル、ストロンチウムが3000万ベクレルという高濃度汚染水があふれ、人間が近づくこともできないという記事もある。これだけにとどまらない。よく見れば、連日何らかの問題を報ずる記事が出ている。
現場をよく知っているということならば、新聞記者以上に竜田・開沼両氏のほうが勝っているのではないか。まして年末には官邸で「内閣記者会懇談会」と称する忘年会が催され、税金で豪勢な料理が振る舞われたという(『日刊ゲンダイ』電子版、2016年1月6日付)。信頼性は竜田・開沼両氏のほうにあるはずだ。しかしそれでも新聞記事のほうに信頼性があるように感じるのは、ぼくも「『不幸なフクシマ』のままでいてほしいひとたち」のひとりなのであろうか。
それにしても、『ダイヤモンド・オンライン』編集部による「放射能や放射性物質への無知や過度の恐怖感に駆られて、本来なら回避できたはずの人命損失や経済的・社会的な損失が、この5年間で膨大に生まれた」というまとめ方は、あまりにも安易に過ぎるように感じられる。「君子危うきに近寄らず」というが、君子ではなくともよくわからないものを遠ざけるという行動はあるはずだ。そういった行動を非難することはできないのではないか。
原発事故直後、テレビやネット上にはさまざまな専門家が登場した。明らかに御用学者とわかるひともいたが、信頼のおける研究者も少なくなかった。しかし現実には、どちらに属すのか素人のぼくには判断できない研究者たちも多数いて、そういう研究者たちもそれぞれ現地で計測したデータを示して、福島の汚染状況は当初考えられたほどひどくないといった発言をするようになってきている。なにかを意図してのことなのかどうかもわからない。
もはや素人のぼくにはなにを信じたらよいのか、どうとらえたらよいのか難しい状況になってきている。このような場で原発や福島の問題を取り上げても、事故直後と比べて迷うことが多くなってきている。
ただ、これだけは言っておきたい。どのような立場に立とうが、事故を起こした原発内部には容易に立ち入ることもできず、当分手がつけられないことは否定できない。そして使用済み核燃料の処分問題はいまだに未解決で、原発を使い続ける限り増えていく。原発事故が起きた場合、国は被害者切り捨てに近い対応しかできないことも明らかになった。
これらの事実を踏まえれば、原発の否定は間違いのない選択だと思う。福島の汚染状況はひどくないと言っているひとたちも、今後も原発を推進してもよいとは積極的に発言していないのではないか。また良心的な研究者の多くは、原発容認に傾きつつある日本について、再び事故が起きることを危惧している。 (2016/01)
<2016.1.12>