いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜
第8回/工藤茂
ぼくの日本国憲法メモ ①
数年前のこと、20歳も年長の大先輩と居酒屋で会ったとき、「面白い本だから」と1冊の本を渡された。樋口陽一『ふらんす── 「知」の日常を歩く』(平凡社、2008年)。まだ刊行間もない本だった。読み終え、「とても面白い」とメールを打ったら、同じ樋口氏の2分冊の自費出版の本が送られてきて驚いた。
樋口陽一氏は憲法学者で、ぼくにとってはまったく縁遠い人物だった。しかし、これらの本は憲法の本ではなかった。樋口氏は1960年のフランス留学をきっかけに何度もフランスを訪れていて、フランスの国や社会のなりたち、フランス人の思考の根底にあるものを中心とした随筆類で、平易な文章ながら奥が深く学ばせられた。とくに自費出版のほうは、海軍大将井上成美[しげよし]の、戦後の横須賀での隠棲に近い暮らしぶりを描いたもの、それに大学での同窓井上ひさし、菅原文太との鼎談(月刊誌『ジュリスト』掲載のものだったと思う)が印象にのこった。
この2分冊の自費出版の本は、樋口氏と付き合いの古い創文社が編集を手掛けていた。店頭売りではないので、不要なものを削ぎ落としたすっきりとした品のよい装幀・造本だった。アルファベットだけの書名で、「仏和辞典には載ってない単語だった」と話したら、「あれはラテン語だ」と笑われた。とにかく新たな面白い著者を知ることになったのだから、大先輩には感謝である。
その樋口陽一氏が怒った。いや正確には怒ったかどうかは分からないが、立ち上がった。『東京新聞』(2013年4月24日付)1面に、樋口氏、憲法学者の小林節氏、政治学者の山口二郎氏ら5人が並んでいる様子がカラー写真で掲載された。
その前日、憲法96条の改正に反対する憲法学や政治学の研究者39人が発起人となって立ち上げた「96条の会」の発足会見が行われ、代表となったのが護憲派の代表格樋口氏だった。これに、「今回初めて樋口氏と同じ側に立った」という、筋金入りの9条改憲派の小林氏も加わる異例の集まりとなったことからも、日本国憲法の根幹にかかわる事態であることが見てとれた。
ことの発端は、安倍首相をはじめ自民党・日本維新の会・みんなの党が、憲法96条の改正に意欲をみせていることにある。そもそも96条は憲法改正手続きに関する条項で、憲法改正は衆参それぞれの総議員の3分の2以上の賛成で発議されたのち国民投票で過半数の賛成を要するのだが、改正を目論む輩たちはそのハードルさえ下げてしまえば、あとは9条だろうがなんだろうが改正も思うがままと踏んだわけである。
ここでひと呼吸をおいて、憲法96条ではなく99条を引いてみる。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
どういうことかというと、国会議員には憲法を守る義務があるが、国民にその義務はなく、国会議員に憲法を守らせる立場にある。国会議員は当然のような顔をしてみずから改正を言い出してはいけない。せめて形だけでも国民、選挙民から強い要望があったように装ってもらいたい、というのが99条の素直な読み方ではないのか。国会議員は立場をわきまえろということである。
話を戻す。自民党は、1955年の結党時の「党の使命」に「憲法改正」があらわれるのをはじめ、「2005年綱領」では「新しい憲法の制定」を、「2010年綱領」で「新憲法制定」を掲げていて、一貫して憲法改正や新憲法制定を目指してきている。樋口氏は「自民党は、少なくとも政綱を見ると、日本国憲法を根本から引っ繰り返そうという革命政党」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』〈講談社文庫、1997年〉)とまで述べているほか、自民党石破茂幹事長は「自民党は憲法改正のためにつくられた政党だ。国政選挙で訴えないのは、わが党のとるべき態度ではない」(NHK番組、2013年6月2日)と、憮然とした顔で開き直っている。
そんな自民党にあっても、「96条先行改正」はけっして主流派ではなく、あくまでも安倍首相の持論だという。安倍氏が党幹事長や官房長官などの主要なポストにあった2005年の「改憲草案」で初めて明文化され、昨年公表の「憲法改正草案」にも受け継がれている(『東京新聞』2013年5月3日付)。
『朝日新聞』(2013年4月24日付)の96条の会発足会見の記事で、樋口氏は「国会は3分の2の合意形成まで熟慮と討議を重ね、国民が慎重な決断をするための材料を集め、提供するのが職責のはず。過半数で発議し、あとは国民に丸投げというのは、法論理的に無理がある」と述べ、自民党に近い位置にいた小林節氏までも「憲法に縛られるべき権力者たちが国民を利用し、憲法をとりあげようとしている」と強い口調で非難している。小林氏の顔は鬼瓦のようにいかつい。
要するに、改正が必要なら自ら描く国家の将来像を示しつつ堂々と訴えかければよいのである。一国の首相の身でありながら、安倍氏には潔さがまったく感じられない。
そんな安倍首相の発言から思わぬ波紋がひろがっているらしい。憲法を読み直してみようという人が増え、書店では憲法関連書籍の売れ行きが好調というから結構なことである。そんな人の多くは7月の参院選でも自民党に投票するようなことはしないはずだ。憲法についてはまったく無知だったぼくも書棚で眠っていた本を引っ張り出し、加えて何冊か買い込む有様でたのしく勉強させてもらったが、安穏としていられる事態ではない。
ところで、ずっと以前からのことだが、「押しつけ憲法」とか「占領憲法」という言い方がある。占領期間中にアメリカから押しつけられた憲法ということであろうが、気になりながらも放ったままだったので、これを機会に素人なりに調べてみることにした。
名著といわれる古関彰一『新憲法の誕生』(中公文庫、1995年)をひもといてみる(あとで気づいたことだが、『日本国憲法の誕生』〈岩波現代文庫、2009年〉という書名を変えた改訂版が出ていた)。
敗戦直後の1945年10月4日、東久邇宮内閣の無任所大臣近衛文麿がGHQ本部を訪れた際に、マッカーサーが「日本の憲法は改正しなければならん。憲法を改正して、自由主義的要素を充分取り入れる必要がある」と大きな声で述べている。当然近衛は「えらいこと」と受けとめているが、これが大日本帝国憲法改正の発端となる。
この翌日に東久邇宮内閣総辞職、10月9日、幣原新内閣成立。13日の新聞発表にて国民は初めて憲法が改正されることを知るが、紙面の報道では天皇が命じて日本側が自主的に改正を考慮していた体裁をとった。のち近衛の失脚をへて、政府の憲法問題調査委員会(委員長=松本蒸治国務大臣)主導による改正作業が始まる。
憲法改正はマッカーサーのひと言から始まったもので、この段階ではまさに押しつけられたものである。しかし、報道を通して国民に知らされる場合は押しつけたことにならないようにアメリカ側は気をつかっているが、それはこの件にかぎらず現在でも相変わらずで、いずれ暴露されることも少なくない。
憲法の改正草案には、松本を委員長として進められた政府案のほかに、各政党案、憲法懇談会案、憲法研究会案などの民間草案があったが、なかでも最もGHQから高い評価を受けたのは自由民権期の民権思想が反映された岩野三郎、鈴木安蔵らによる憲法研究会案だった。
憲法研究会による「憲法草案要綱」はあわただしい年末の12月26日(27日説もある)にGHQに提出されたにもかかわらず、翻訳局による翻訳をへて翌1946年1月2日には政治顧問アチソンの評価を添えて国務省に報告書が送られている。他方、民政局行政部でも別訳をつくり1月11日にはラウエル中佐による詳細な所見とホイットニー民政局長の署名をへてマッカーサーに提出されていることからも、相当の重要度をもって受け止められたことがみてとれる。
戦前の日本で少女時代を過ごし、GHQ案作成の人権委員会に所属したベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス──日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子訳、柏書房、1995年)にも、法学博士で弁護士やロサンゼルス連邦検事という経歴をもつラウエル陸軍中佐が、憲法研究会案に好意的な説明をつけて報告した様子が描かれ、憲法研究会を「当時の進歩的グループ」としている。
その一方で政府案は、GHQ提出前に『毎日新聞』によってスクープされ、その内容に納得できなかったGHQ民政局が独自の憲法草案起草に取りかかり、日本側に極秘裏に1週間で仕上げることになる。結果的にこれが新憲法の叩き台となった。
ベアテ前掲書には、「民政局には、米国内では進歩的思想の持ち主といわれるニューディーラーが多かったが、憲法草案に大きな影響力を持ったのは、ワイマール憲法とソビエト連邦憲法であった」と記され、GHQ案の作成にあたった25人は、法律家、民族学者、経済学者からなる知識人の集団であり、理想とする憲法を目指しての彼らの格闘が生々しく描かれている。彼らのつくり上げたきわめてラディカルな憲法原案は大幅に修正が加えられてGHQ案として仕上げられた。ちょっと気になるが、ここでいう「ニューディーラー」とは、「リベラリスト」「コミュニスト」「マルキスト」など、どう置き換えるのがふさわしいだろうか。
政府案は1946年2月8日にGHQに提出された。自信家の松本国務大臣の強い指導力のもとに、諸外国の憲法をまったく参考にすることもなく明治憲法を基本としてまとめられたもので、天皇主権をのこし、人権条項はなかった。保守的な政府案は受け入れられるはずもなく、GHQ案が提示される(13日)。GHQ案は全92カ条のうち3分の1を人権条項が占めていた(ベアテ前掲書)。
GHQ案は憲法研究会案をほぼそのまま英訳したものだとか、GHQ案の下敷きとなったのは憲法研究会案だといった記事をネット上でいくつか読んだが、少なくともここで取り上げた本のなかにはそのような記述はなかったように思う。
日本側にGHQ案が提示される際、これを受け入れるなら極東委員会からの圧力に対して天皇は安泰になると迫られている。古関彰一は「押しつけたと断定するほどのものはない」とし、ベアテは「日本側にとっては脅迫に近いものだった」と記しているが、これは押しつけとしかいえないように思える。
日本側はGHQ案を叩き台にした新たな政府案をまとめたのち、双方が会して逐条審議を行った。途中で日本側責任者の松本は体調不良の理由で帰ってしまったため、通訳をのぞくとGHQ側から出席した16人を相手に法制局官僚佐藤達夫ひとりの孤軍奮闘で30時間(古関書。ベアテ書は32時間)におよぶ作業で、GHQ案が日本化された確定案がまとめられたのが3月5日である。
この作業も「押しつけ」といえなくもないが、土地の国有化や外国人の法のもとの平等の却下など日本側が押し切った条項もあり、また責任者が放棄してしまったこともあって一概に押しつけとはいえないだろう。ついでになるが、女性の人権について日本側は相当抵抗したが、日本で暮らした経験から日本女性のおかれた立場をよく知るベアテが書いたことを知らされると、日本側は納得して受け入れたという。
翌6日、憲法改正草案要綱は日本政府がつくったものとして公表され、ただちにマッカーサーは承認声明を出した。4月17日、ひらがな口語による憲法改正草案が発表、5月16日に招集された第90回帝国議会に提出され、衆議院・貴族院・枢密院での審議・修正ののち天皇の裁可をへて11月3日に「日本国憲法」として公布された。その当日、貴族院本会議場の傍聴席には、GHQ案作成にあたった民政局のメンバーもそろった。
1947年1月3日、吉田茂首相はマッカーサーから書簡を受け取っている。「(新憲法)施行後の初年度と第二年度の間で」憲法改正を必要と考えるなら自由に改正してよいという極東委員会の決定を伝える内容だった。吉田はごく短い返書を送ったのみで、1949年4月、憲法改正の考えがないことを国会で表明すると同時に、極東委員会の決議自体を「私は存じません」としている。著者の古関もこの吉田の真意をつかめず、「やがて占領も終わるだろう、憲法改正はその時考えればいいことだ、いまは時期がわるい」と考えたのではないかと推測している。
以来日本国憲法は改正されることなく現在にいたっている。その間も自民党は何度も執念深く改正を試みたがかなわなかった。このようにみてくると、確かに押しつけはあったといえるが、その後の審議は充分につくされており、国民の納得のうえで60年以上にわたって施行されてきていると捉えるべきだろう。むろん、完璧なものではないにしろ少なくとも国民の利益に反するものではなく、多くの国民は改正を望まないという意思表示とも思える。
樋口氏の言葉を引こう。
「もちろん、憲法の基本価値そのものへの批判も含めて、議論はつねに開かれていなければならない。(中略)しかし、何より大事なことは、そのような意味での開かれた社会をデザインしたのは、日本では、ほかならぬ日本国憲法が初めてだった、という点です。(中略)私はいま日本国憲法に手をつければ誤った方向にしか行かないと考えるので、政界や論壇で議論されている改憲に、反対の立場です」(樋口・井上前掲書)
同書の対談が行われたのは1993年で、もう20年も前のことだが、憲法をめぐる情況はいまもほとんど変わっていないことに驚く。
今回は憲法関連の本を大急ぎで数冊目を通してみたが、成立過程をたどる作業は上質なドキュメンタリーを読んでいるようで思いのほか面白かった。それにしても、石原慎太郎氏や安倍晋三氏、石破茂氏らがさかんに憲法改正をとなえるのは、日本国憲法の叩き台をつくったのがニューディーラーたちであることに原因があるようだ。このことが分かったのは大きな収穫だった。また、その原案はもっとラディカルなものだったことも記憶しておきたい。
いまの憲法にも不備があることはたしかだが、安倍首相のもとで改正するかどうかといえば、いじらないでおくほうが懸命のようだ。憲法をいじらなくとも政府はなんでもやってしまうことは、イラクやアフガニスタンへの自衛隊派遣のほか、アフリカ東部のジブチでの自衛隊海外基地建設などで明らかである。つまり憲法は機能していないのであって、これには改憲派の小林節氏もカンカンである。
今回は憲法9条の問題にまったく踏み込むことができなかった。超党派の国会議員による「立憲フォーラム」、6月5日の第4回勉強会では、半藤一利氏による憲法9条は日本人がつくったという講演が行われたようだが、証拠となる新たな資料の発見があったわけではなく、彼自身の解釈を変えたということのようだ。いずれまた勉強してみたいと思う。 (2013年6月)
<2013.6.29>