いま、思うこと13 of 島燈社(TOTOSHA)

標的の村01-1.jpg

いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜

第13回/工藤茂
沖縄県国頭郡東村高江

 この10月、琉球朝日放送制作のドキュメンタリー番組を劇場用に編集し直した映画『標的の村』を観た。東京では8月から上映が始まっていたのだが、時間的な余裕がなくあきらめていたところ、まだ上映されていることを知り、あわてて駆けつけたというありさまだ。上映開始から2カ月も過ぎているせいだろうか、観客はわずか10人ほどだった。

 舞台は沖縄本島北部「山原[やんばる]」の森林地帯。そこはヤンバルクイナやノグチゲラなどの固有種をはじめ、絶滅危惧種の植物などの生息地でもある自然豊かな地域であり、沖縄本島の生活用水の60パーセントをまかなう5つのダムが点在する貴重な水源地帯でもある。
 そんな山原に、総面積7,800ヘクタールもある広大な米軍北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)というとんでもないものがひろがっている。アメリカ施政権下の1957年、ゲリラ戦やサバイバル訓練を目的としてつくられた世界唯一の訓練場である。
 国頭[くにがみ]郡東村[ひがしそん]は山原の南東部に位置し、村の中心部より大きく北に離れたところに国頭村と接して高江区がある。東村北部の海岸は断崖絶壁がつづき港はない。地図によれば東村の多くが北部訓練場に占められていることが見て取れるが、なかでも高江区は訓練場のなかに集落があり、頭上を軍用ヘリコプターが飛びかう日常となった。
 そして1960年、ベトナム戦争が始まり、本島南部の嘉手納基地はB52戦略爆撃機の出撃基地になると同時に、沖縄は米軍の前線基地となっていったころのことである。北部訓練場にはベトナム村というものがつくられた。ベトナム風の民家を並べてベトナムの山村にそっくりな村がつくられ、実践に近い形の襲撃訓練がおこなわれていたのである。そのゲリラ戦の訓練には、近くの高江の住民たちが駆り出されたという。ベトナム風の黒い服を着て三角帽をかぶって家族総出でベトナム人役=米軍の標的として、参加させられたのである。
 当時の地元紙『人民』のつぎのような記述が紹介されている。「この訓練には乳幼児や5、6歳の幼児をつれた婦人を含む約20人の荒川(高江)区民が徴用され、対ゲリラ戦における南ベトナム現地部落民の役目を演じさせられた」(1964年9月9日付)
 またゲリラ戦に参加していた元米軍海兵隊員のコメントも取材している。「ベトナム村にヘリコプターが近づき、降りてきた海兵隊員がシューティングしながら村に近づいていく。ベトナム兵役は村に潜んでおり、隊員が村を攻撃して米兵を救い出しゲーム終了」。驚いたことに彼はベトナム村周辺に枯れ葉剤を撒く指示をうけ、彼自身いまでもその後遺症で苦しんでいるという。
 映画には、ベトナム村を見下ろす高台で、椅子に座って笑いながらその訓練を見物するワトソン高等弁務官の姿も映し出されていた。いつかTVで観たことのある天童市の人間将棋を思い起こしてしまった。
 いま、ベトナム村のことを記憶している高江の高齢者たちの口は重く、インタビューを拒否する人もいたという。それどころか米軍を悪くいう人は少ない。「軍には世話になった。毛布もくれたし道もつくってくれた」という言葉がすべてを物語っている。遠い日本国よりも、食べ物をくれたり学校をつくってくれる米軍のほうがよっぽど頼りになったというのだ。高江の人々は米軍と折り合って生きていくしかなかった。こうして、ベトナム村のことは大きく報じられることもなく、沖縄でも知る人は少なかったようだ。
 ベトナム村の掘り起こしがこの映画の主要なテーマではないのだが、ぼくにはこのベトナム村の話が衝撃的だった。そして高江ではいまもこれに近い状態が続いているのである。

 「米軍は私たちをターゲットに訓練をしている」「上空のヘリから銃を向けられた」──監督の三上智恵(琉球朝日放送)は、高江の人に聞いたこの話から取材が始まったことを映画のパンフレットに記している。ベトナム村のない現在、米軍は、北部訓練場のなかに埋もれるように暮らしている高江の集落やその住民たちを訓練の標的として利用しているのである。
 北部訓練場には米軍のヘリコプター離着陸施設であるヘリパッドが15箇所あるが、「沖縄の負担軽減」のために北部訓練場の半分を返還する条件として、返還予定地内にあるヘリパッドの高江周辺への移転などが日米間で取り決められた。
 それをうけて、2007年から6箇所のヘリパッドの新設工事が始まっている。それも人口160人あまりの小さな高江集落をぐるりと取り囲むように新設される計画だ。米軍の「環境調査報告書」にはオスプレイ配備が明記され、辺野古の新基地と一体でオスプレイの訓練につかわれるという。オスプレイが飛び交うなかで標的覚悟で暮らせということである。ヘリパッドに反対をかかげて当選した村長はその後容認に転じ、仲井間沖縄県知事も「負担軽減」名目の容認である。
 辺野古新基地に関しては、反対運動と仲井間県知事の拒否のため工事はまだ始まっていないようにみえるが、沖縄防衛施設局側では別事業といいながらこっそり新基地関連の工事に取りかかっていて、どちらの工事も進められているのが実態である。
 高江の人々による反対運動を中心に映画は描く。工事にやってくる防衛施設局側を通すまいと連日の座り込み、揉み合いが続く。国は国策に反対して座り込んだ住民たちを「通行妨害」にあたると訴え、裁判が始まる。国はあろうことか、現場には行ったこともない7歳の女の子までをも訴えた。個人を弾圧・恫喝するために力を持つ企業や自治体が訴えること自体をアメリカではSLAPP裁判と呼び、多くの州では禁じているが、日本にはそういう概念はないという。
 そして2012年9月9日、オスプレイの沖縄配備を前に開かれた県民大集会、9月29日、台風襲来のなか普天間基地の4箇所のゲートを同時に車でふさぐ完全封鎖へと突き進む。一般住民のほか県会議員、市会議員のみならず、国会議員や弁護士も参加し、完全に基地機能を停止させるという前代未聞の出来事だった。22時間後の30日夜には沖縄県警の機動隊が出動し強制排除に乗り出す。若い警官に言葉が投げつけられる。「だれかひとりぐらい意地を出して、(県民と衝突したくないから)帰りますって言え!」。車のハンドルにしがみついて立てこもり、くしゃくしゃの顔を涙で濡らして「安里屋ユンタ」をうたい続ける女性が映し出される。「安里屋ユンタ」はもともとは抵抗の歌だということを初めて知った。
 つらい映画だが、画面からはいっときも眼を離すことができなかった。

 TVや新聞では高江のヘリパッド工事についてはほとんど報じられない。TV朝日の「報道ステーション」でこの映画のワンシーンが流されたほか、『東京新聞』が2年前に特報面で取り上げたことがあるようだが、報道管制にちかいものが敷かれているという情報もある。
 日本政府はほとんど沖縄を棄てているのではないかと思う。マスメディアもそれにならい、日本本土の人々も同様で、自分たちが暮らすところは沖縄とは違う、沖縄はしょうがないと納得しているように思える。しかしいまの政治情況が続くと、いずれ日本全土が沖縄のようになっていくように思えてならない。沖縄の人々はそんな日本をさっさと見限ったほうがよいのではないだろうか。
 アメリカという大国を相手に、米軍の駐留のあり方をめぐって堂々と交渉を続けてきたイラクやアフガニスタンをうらやましく思う。それは日米地位協定のようなものは認めまいという必死の闘いだった。イラクはまったく譲歩せずに完全撤退を勝ち取ったが、アフガニスタンは11月20日、残念ながらアメリカ側に全面譲歩して長く続いた交渉を終えた。完全撤退を実現させたイラクにしても、すべて順調にすすんでいるわけではないのだが。

 11月15日、キャロライン・ケネディ氏がアメリカの駐日大使として着任した。ジョン・F・ケネディ元大統領の長女であるためか、アメリカでも話題になっているようだし日本では大はしゃぎだ。
 しかしながら、ケネディ氏には政治経験がまったくない。弁護士資格はあるが、前任のジョン・ルース氏のような弁護士としての活動実績もないらしい。4月3日付『ロサンゼルス・タイムズ』は社説で取り上げ、キャロラインさんにはモンデール副大統領やマンスフィールド上院院内総務のような経験が欠落していると指摘し、北朝鮮の核問題や尖閣問題など難問が山積しているときに、米国大使は象徴だけでは務まらないと論じたという(『東京新聞』9月29日付、木村太郎「太郎の国際通信」)。
 他方、ケネディ氏は徹底したリベラリストで、人権問題には関心の高い人物だともいう。そういう面では、期待していたオバマ大統領には深く失望しているという情報もある。そんな彼女に映画『標的の村』を観てもらえないものだろうか。天皇に手紙を手渡した山本太郎氏のように、ケネディ氏に『標的の村』の英語版DVDを渡して確実に観てもらう手立てはないものだろうか。
 彼女はなにを思い、どういった行動をとるのであろうか。年が明けると名護市長選挙がおこなわれる予定で、TV、新聞は否が応でも辺野古の問題を取り上げることになる。彼女は理不尽な日米関係とどう向き合うのであろうか。 
 『標的の村』は、ポレポレ東中野で11月28日まで上映しているようだ。 (2013/11)


<2013.11.25>

標的の村01-1.jpg映画『標的の村』パンフレット

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工藤 茂(くどう・しげる)

1952年秋田県生まれ。
フリーランス編集者。
15歳より50歳ごろまで、山登りに親しむ。ときおりインターネットサイト「三好まき子の山の文庫」に執筆しているが、このところサボり気味。

工藤茂さんの
<ある日の「山日記」から>が読めます。LinkIcon

標的の村01-1.jpg映画『標的の村』パンフレット