いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂
第100回:殺してはいけなかった!
坂本敏夫氏というノンフィクション作家がいる。初めて聞いた名前だが、著作一覧には見覚えのあるものもあった。「文春オンライン」に、その坂本氏へのインタビュー記事が載っていて、年末に偶然読んだ。
木村元彦[ゆきひこ]氏という、こちらも初見のノンフィクション作家による「刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち」(2020年11月23日、12月26日付)である。
坂本敏夫氏は今年74歳になるが、親子三代続いた刑務所の看守だったという。父は熊本刑務所の刑務官だった。1947年、氏は刑務所の官舎で生まれ、刑務所の塀を見て育つ。大学1年のとき、大阪刑務所管理部長だった父が自死。父の同僚のアドバイスにより、大学を中退して刑務官試験をへて刑務官となる。父の死で官舎を出ることになったため、祖父、母、弟ら家族の住居として官舎を確保するためだった。そんな将来の決め方があるものかと、頭を抱えてしまった。
以後27年間、いくつかの刑務所で刑務官を務め、1994年、広島拘置所総務部長を最後に退職。映画やテレビドラマの監修、著作活動を始めるとともに、死刑制度反対を表明し、NPO法人「こうせい舎」を立ち上げて更正援助に関する事業も行っている。
「文春オンライン」の坂本氏へのインタビュー記事は3本連載だが、そのうちの2本は、氏が接した永山則夫についてのものである。ぼくは若い頃に、永山の『無知の涙』(合同社,11971年)を古書店で買ったものの、収録されている詩篇を拾い読みしただけで終わっている。また堀川恵子『永山則夫 封印された精神鑑定記録』(岩波書店、2013年)も気になっていながら、いまだ手にとっていない。
1968年、19歳の永山則夫は、忍び込んだ米軍横須賀基地で拳銃と実弾を盗み出し、東京のホテルの庭でガードマンを警官と誤って射殺。逃走した京都で声をかけてきた警備員を、函館・名古屋で乗車したタクシーの運転手をそれぞれ射殺。翌1969年、東京の渋谷で起こした強盗殺人未遂事件で逮捕される。「類を見ない少年犯罪」ともいわれた。東京地裁での初公判は同年8月、10年の審理をへて1979年7月、同地裁で死刑判決を言い渡された。
獄中での永山は、文通していた女性との獄中結婚や、『無知の涙』をはじめとした手記・小説など10点以上の著作活動、第19回新日本文学賞(1983年)受賞など話題も多く、よく知られた存在となっていた。
坂本氏が東京拘置所で永山に会ったのは1978年、法務省の官房会計課で刑務官の待遇改善の予算要求の資料作りをしているときで、その後1983年まで、10回以上面談している。当初の永山は、言葉遣いは荒く、社会性というものが欠落していた。
幼い頃に父が失踪、それを追うように母は家出、幼い兄弟4人で育ち、15歳で集団就職で勤めた東京の職場でのいじめなど、そんな境遇のなかで生きてきた。ただ反抗的な態度はなく、頭もよかった。坂本氏が前回話した内容について、次回の面談でより深く聞いてくるなど、知的好奇心も旺盛だった。
初めての手記『無知の涙』の刊行も、獄中でのノートの使用許可を得て以降の猛勉強の賜物だが、印税は被害者遺族に支払われる契約にしていた。その後の出版物についても、印税は被害者遺族のほか、教育を受ける機会のない貧しいペルーの子どもたちのための「永山子ども基金」にあてられた。貧困のために自分のような人間をつくり出さないように、贖罪のための執筆活動だった。
東京地裁での死刑判決の2年後の控訴審で、東京高裁は無期懲役へと減刑した。直接永山を知る坂本氏は、妥当な判決と受けとめた。ところが1983年、最高裁はこの判決を破棄、東京高裁へ差し戻しを命じた。一度減刑とした判断を再び極刑に戻したのである。このとき提示された9項目の判断が「永山基準」として踏襲されていくことになるが、死刑にするためのこじつけだったと坂本氏はいう。控訴審判決が標準になったのでは死刑がなくなってしまうことからつくりだされた基準である。「最初に死刑ありきと言ってもいい」とさえ坂本氏は述べている。
1987年、東京高裁は控訴を棄却、一審の死刑判決を支持。1990年に上告棄却、弁護人の遠藤誠が「判決訂正の申立書」を郵送するも棄却されて死刑が確定する。永山は43歳になっていた。
最高裁は公判を焦っていたのではないか。坂本氏はこのときの公判に疑問を抱いている。無期懲役を再び死刑にするという重要な判決にもかかわらず、判決理由の朗読はなく、主文のみで閉廷した。判決理由を書かずに公判に臨んだとしか思えないという。
「繰り返しますが、最初に死刑ありきだった」
この頃、アムネスティやドイツの作家同盟が永山の恩赦を望む書簡を日本政府へ送るなど、永山は世界から注目を浴びていたほか、日本文芸家協会への入会申し込みもしていた。
「私を含めて現場の刑務官は、永山則夫は死刑が確定しても執行はされないだろうと思っていました。遺族に償いをし続けていたこういう死刑囚はかつていなかったわけです。そんな人間を相手に死刑執行はしない、できないですよ」
1997年2月から5月にかけて、14歳の少年による「酒鬼薔薇事件」が起こる。少年Aはハンマーや小刀で4人の少年少女を襲い、ふたりを殺害する。しかも最後に殺した少年の首を切断、自分が通う中学校の正門前におき、6月末に逮捕。
坂本氏はすでに刑務官を辞め作家生活に入っていたが、現職の刑務官たちから細かな情報が寄せられていた。「これで永山に仕掛けてくるだろう」と、刑務官たちは覚悟したという。永山のような有名な死刑囚の刑の執行、検察にとっての「酒鬼薔薇事件」は、「少年も極刑にするぞ」と存在をアピールする千載一遇のチャンスでもあった。
数年で異動していく幹部たちとは異なり、現場の刑務官たちは永山を絶対に殺してはいけないと考え、東京拘置所内はふたつの意見に分かれた。当時の東京拘置所内には永山よりも古い死刑確定者が10人以上いて、順番どおりとすれば、永山の執行は数年先という状況だった。しかし少年Aの逮捕から早々、法務省から永山についての「死刑確定者現況紹介」が届く。
それから1カ月もすると職員たちは、そろそろ永山の死刑執行という認識になっていた。執行を担当するのは若い刑務官である。日頃、永山と言葉をかわしたり冗談を言い合っている彼らの心はボロボロになっていた。
坂本氏は、現場の刑務官から送られてきた8通の匿名の手紙で永山の最期を知る。少年Aの逮捕から1カ月後の1997年8月1日、朝食後執筆に取り掛かった永山は、突然独房から引き出される。暴れた永山は制圧という名の暴行を受け、麻酔薬も使われた。意識のない永山へ形だけの死刑言い渡しを済ませ、首にロープをかけ床を落とした。無意識のままの絶命。すべて坂本氏の想像だというが、実際想像どおりだったという。死刑執行後の遺体は遺族や身元引受人に渡されるが、永山の場合は引受人である弁護士に遺体を見せることもなく、火葬ののち遺骨引き渡しが通知された。
刑務官たちからの手紙には、矯正職員である刑務官みずからが、更正させた人間を殺さなければならない自己矛盾や、出世に汲々としている幹部への恨みも綴られていたという。
前掲『永山則夫 封印された精神鑑定記録』は、精神鑑定医が3カ月もの長期にわたって聞き取りを行い録音された100時間におよぶテープが元になっているという。このときの鑑定書が二審で採用され無期懲役となったのだが、最高裁でははなから無視された。独房に残された永山の荷物のなかに、いたるところに書き込みがされボロボロになるまで読み込まれたその鑑定書があったという。それにしても、永山の生い立ちはあまりにもつらい。そして永山則夫は無知ではなかった。読書好きの少年だったという。(2021/02)
<2021.2.11>
木村元彦連載「刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち」(「文春オンライン」)
手元にある『無知の涙』(写真提供/筆者)