いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂
第118回:ペロシ下院議長 訪台をめぐって
7月18日、アメリカのナンシー・ペロシ下院議長の台湾訪問予定が、イギリスの「フィナンシャル・タイムズ」で報じられた。そのタイミングが最悪だった。
6月中旬のアメリカのサリバン大統領補佐官と中国の楊潔篪[よう・けっち]政治局員との協議、7月9日のブリンケン国務長官と王毅国務委員兼外相の協議など、米中高官級協議が立て続けに行われていた。両国の首脳会談、台湾やウクライナ問題などのテーマについての話し合いだったとされている。
「フィナンシャル・タイムズ」のスクープが報じられたのは、その米中首脳会談の日程が決まりかけていた矢先のことだった。タイミングがよくなかった。
そもそも中国にとっての台湾問題は内政事案で、他国が口を挟むことではない。アメリカ政府にしても、中国が求めている「ひとつの中国政策」を認め、台湾との国交を断ち、内容の曖昧な「台湾関係法」での交流にとどめている。
中国にとっては、2012年の日本政府による尖閣諸島国有化と同様、いきなり喧嘩を売られたに等しい。「ペロシ議長が台湾を訪問すれば中国の主権と領土の一体性を深刻に侵害することになる」として猛反発したが、バイデン大統領は政権としての立場とは違うと表明するしかなかった。
こうして、予定されていたバイデン大統領と習近平国家主席との首脳協議は、急遽7月28日に行われた。しかし当初の内容から大幅に変わり、2時間17分におよぶ電話協議の3分の2以上がペロシ議長訪台をめぐる応酬に費やされることになった。
「JIJI.COM」(2022年7月29日付)によれば、習主席は「火遊びすれば必ず焼け死ぬ。アメリカ側がこの点を理解することを望む」と中止を迫り、バイデン大統領は「訪問は発表されていない。彼女の決断次第だ」と語るにとどめたという。
習主席は「止められないのであれば、台湾有事を想定した強硬な軍事演習を行わざるを得ない。しかしいまは米中戦争をする気はない。不測の事態が起きないようにアメリカには自制的に対応してもらいたい」と伝え、バイデン大統領も「ペロシ議長訪台には反対だが、止められない。それだけは理解してもらいたい。戦争を避けたいのは自分も同じだ」と応じたというが、この部分は天木直人氏の推測である(「天木直人氏メールマガジン」同年8月14日付)。
米中間の関係改善を図ろうと模索していた首脳協議が、ペロシ議長訪台でぶち壊しになったのだ。ただ、ペロシ議長が乗った飛行機を撃墜するという中国側の警告をうけて、米軍による台湾東方近海へのロナルド・レーガンをはじめとする艦船の配備も、離台直後に展開された中国軍の強硬な合同軍事演習もすべて、ほぼ茶番に近いものだったようだ。まったく無駄な経費だった。
今年82歳になるペロシ議長は、アメリカでは「人権重視のリベラル派」を代表する存在であり、中国政府への批判的な姿勢を貫いてきた「天敵」だという。同氏はワシントン・ポスト紙の寄稿で「日増しに高まる中国共産党による台湾侵攻の危機に臨んで米国議会の代表が台湾を訪問することは、圧力に直面する台湾と米国がともにあるという明確なステートメントになる」と訪台の目的について語っている。
しかし、今年11月の中間選挙では所属する民主党は劣勢模様で、政治家として最後の年になる可能性もあり、「下院議長として25年ぶり」となる訪台を業績として残したかったというところが本音ともいわれている。
下院議長は大統領が職務遂行不可能になった場合の継承順位が副大統領に次ぐ要職だけに、中国も黙って見過ごすわけにもいかなかった。ホワイトハウス高官や軍幹部がペロシ議長説得に懸命に動いたようだが、三権分立が徹底しているアメリカでは、行政トップの大統領といえども、議会トップの議長に命じることはできない。他方、仮に中国の反発をうけて訪台を見送った場合、議会が弱腰とみられる懸念さえもあった(『東京新聞』同年8月3日付)。
こうしてペロシ議長と下院議員団一行は、アジア歴訪の旅に出発した。7月31日に給油のためにハワイに立ち寄っているが、いつワシントンを発ったものか発表がない。中国を刺激しないように、こっそり出発したようだ。しかも正式発表された訪問国はシンガポール、マレーシア、韓国、日本だけで、台湾は含まれていなかった。
8月1日、ペロシ議長はシンガポールに到着、リー・シェンロン首相と会談をした。台湾訪問が発表されたのは、その翌日、2日にマレーシアを訪問してからだった。そしてその夜には台湾へ入った。
7月にペロシ議長訪台が報じられて以降、蔡英文総統はずっと沈黙を貫いていた。中国を刺激することを避けたのは当然だが、アメリカにも遠慮したのであろう。総統が吹っ切れた様子をみせたのはペロシ議長との会談からだった。「台湾をはじめ世界中で民主主義を守るという決意は揺るがない」と台湾への支援を表明したペロシ議長に対し、蔡氏は「われわれは国家の主権を堅持し、民主主義の防衛戦を守り続ける」と応じ、勲章を授与した(『東京新聞』同年8月4日付)。
3日夕方、ペロシ議長一行は台湾から韓国へと移動した。驚いたことに尹錫悦[ユン・ソギョル]大統領は、夏休みを理由に議長との会談を避け、電話協議にした。疫病神から逃げたのかと思ったら、天木氏曰く「事前に外交ルートを通じてバイデン大統領に伝え、了解をとったうえでのこと」とのことである。
韓国は8月24日の中韓国交正常化30周年をひかえ、中国との関係をいま以上に悪化させることはできない。バイデン大統領自身もペロシ議長を止めたいぐらいだったのだから納得するのも簡単だ。しかしながら日本は韓国とは異なる。アメリカと同盟関係にある日本の首相が下院議長に会わないという選択肢はなく、早々に岸田文雄首相とペロシ議長の会談を発表した。そこには日中関係はまったく考慮に入っていない。
その結果、8月4日に予定されていた王毅、林芳正両外相の会談は、直前になってキャンセルされた。5日、ペロシ議長は岸田首相と朝食を交えて1時間ほど会談を行ったあと離日した。9日には、韓国の朴振[パク・ジン]外交部長官が中国を訪問し、王毅外相と中韓国交正常化30周年をめぐる協力について話し合っている。
そして14日、対面による米中首脳会談が11月に行われることが発表された。ペロシ議長訪台がなければ、もっと早く行われていたはずの会談の仕切り直しだが、そこへアメリカの5人の議員団訪台のニュースが入ってきた。バイデン大統領も困惑であろう。これでは仕切り直しの首脳会談もどうなるかわからない。
天木氏曰く「バイデン大統領の真の敵は習近平国家主席ではない。米国議会だ。習主席の敵はバイデン大統領ではない。米国議会だ」。
台湾にとってもメリットは薄く、中国・アメリカにとってもデメリットばかりが目立つ、お騒がせなペロシ議長の行動だった。習近平国家主席、バイデン大統領ともに好きな政治家ではないが、それにしても両者には同情したくなるような一件だった。
ところで今年の9月29日は、日中国交正常化50周年にあたるのだが、岸田首相が中国を訪問し、習主席とじかに会うようなら「おおっ!」と叫んで見直してやりたいのだが、そういうひとではなさそうだ。 (2022/08)
<2022.8.17>
ナンシー・ペロシ下院議長(アメリカ合衆国下院HPより)