いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂
第78回:元号騒ぎのなかで
自分で元号を書くことがあるだろうか、と考えてみた。役所へ提出する書類では元号の名称を書くことはない。すでに印刷されているか、いくつかの選択肢のなかから該当するものを○で囲むことになる。それでも元号の年数は書く必要があるので、指を折って数えてみたりするが、面倒なうえに間違えることもある。しかも、ぼくは明治や大正が何年までかはしっかり頭に入っているのだが、昭和は記憶できていない。
ぼくにとって元号はA、B、Cという記号のようなものでしかなく、あまり付き合いたくないし、なくともいっこうにかまわない。まして出典がどうであれいっこうに気にならない。
4月1日午前、平成に代わる新たな元号が発表された。それまでに新聞・テレビは特集記事や特番を組んでカウントダウンまで行って国じゅうを盛り上げてくれた。その甲斐あって、午後からは日本全国大騒ぎの様相で、新聞の号外を奪い合い、ネギトロで新元号の文字を描いた弁当には驚くばかりだった。どこかに仕掛け人が潜んでいるのであろうが、みんなよく踊ってくれた。
「令和」という名称には驚いた。その1週間ほど前のこと、我が家では「令」の字が話題にのぼっていた。「令」の字は教科書体と明朝体・ゴシック体ではまったく字体が異なる。このことは元号が発表されてからテレビ・新聞でも解説していたが、我が家では1週間前にすでに、元号とは関係なく話題にのぼっていたのだ。
いまさら説明も不要だろうが、教科書体というのは手書きに近い字体であるのに対して、明朝体・ゴシック体では活字然とした字体にデザインされている。したがって小学生が学校で習う場合には教科書体の字体で習っているはずだし、手書きで書く場合は教科書体の字体で書くひとが多いはずだ。
そうとはいえ、日常生活で目にする「令」は、テレビの字幕や新聞・雑誌の活字然とした字体が多く、教科書体の字体は少ない。うちのカミさんは書を嗜むことから、どのような字体で書くかが大きな問題になってくる。我が家で話題にのぼっていたというのは、そういった事情だった。書に元号を書くことなどないが、「令」の字を書くことはあるのだ。
菅義偉官房長官が「令和」の額を上げたとき、我が家では妙な空気が流れた。「あっ、あの字だよ」。筆で書かれたその「令」の字は、活字然とした字体に近いもので、しかも最後の画がはねていたため、なおさら妙な空気になった。どうして教科書体の字体ではなかったのか。行き着くところは、「よりによって、どうしてそんな厄介な字を元号にしたのか?」ということになる。
のちの報道によると、あの字を書いたのは内閣府の「辞令専門職」ということだが、書家でもある。しかし推察するところ、あの活字然とした字体に決定したのはその担当者ではないだろう。個人で決めるにはあまりにも荷が重すぎる。菅官房長官をふくめ複数のひとたちが協議・決定し、担当者が書いたものであろう。
どんな元号でもかまわないのだが、複数の異なる字体をもつ「令」を入れた新元号は、我が家では評判がいいはずがない。これまで教科書体で「令」の字を書いていたひとも、今後は意識して活字然とした字体で書くことになるのかもしれない。妙なことになったものである。
4月1日以降、この世はまさに新元号フィーバーで、新たな元号をみんな大歓迎のようだ。安倍晋三首相も菅官房長官もさぞかしご満悦であろう。しかし、そんなおふたりの想いに水を差すような動きもあった。
さすがにネットの反応は早い。万葉集が出典とはいいながらも、じつは中国の古典の孫引きであるといった話題が発表直後には飛び交っていた。そして翌4月2日には、テレビまでもそんな様子をみせてくれて驚いたものだ。
偶然観たのだが、テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」に歴史学者で東京大学歴史編纂所の本郷和人教授が出ていた。本郷教授は、自分は将来元号を検討する立場に選ばれる可能性があるので、「令和」を悪く言いたくないと前置きしながら話しはじめた。今回最終案として出ていた「万和」「久化」「万保」「広至」「令和」「英弘」の6つのなかで、「令和」以外はケチのつけようがないと言い放った。そして論語の「巧言令色少鮮し仁」の例をあげ、「令色というのはニヤニヤ顔をつくることで、仁の概念からは最も遠い意味になる」とまで述べた。
どうしても安倍首相のニヤついた顔を思い浮かべてしまうのだが、テレビ局のスタジオでよくぞ言ったものである。本郷教授は将来の大きな仕事を棒に振ったことであろう。
もう1本、同じ4月2日放映、NHK「クローズアップ現代」。中国古典の重鎮といわれる京大名誉教授の興膳[こうぜん]宏氏のインタビュー録画である。ぼくはネット上の「クローズアップ現代」のHPでの紹介を読んだ。興膳氏の主張は小気味よいほど明解なものだった。
「私、個人としては、元号はなくてもいいと思っております。中国で空間を支配する王者であると同時に、時間を支配する王者でもあるという、その象徴として、シンボルとして元号が制定された。天皇が統治するという前提のもとにできている元号が(現行の)憲法との整合性という意味で、ちょっとおかしくなってくる」
天皇による時間の統治手段である元号と、国民主権を基本原理とする日本国憲法は整合性がとれないという主張である。現政権に近い位置にあるはずのNHKがこれを放映し、HPにも掲載していることに驚いた。興膳名誉教授は御年83歳。これからの天皇譲位・即位に向けての騒ぎなかでも、ぜひ天皇制の在り方についても声高に発言してもらいたい。
今回の元号騒ぎで気になることがもうひとつ。先にも触れたが、テレビ・新聞の報道を見る限り、歓迎ムードにあふれている。4月1〜2日に行った共同通信の世論調査では、「新しい元号に好感が持てる」と答えたひとが73.7%にのぼり、「安倍内閣を支持する」が10%も上がった。仕掛け人が仕込んだ成果がしっかりあらわれている。そこで、何度もテレビで流れた号外奪い合いの熱狂シーンを思い起こしてみる。なんとも恐ろしいではないか。
仕掛け人がマスメディアを使ってあおれば、世間はいとも簡単に乗るのである。民衆の動向操作など思うがままである。ナチスもそうだった。イギリスのEU離脱の国民投票でもSNSによって世論を誘導した選挙参謀がいた。どれも後悔するようなことになっているが、世論を一時的に大きく動かすことは比較的容易である。その実態を見せられたような想いでいる。
ついでだが、去る2000年5月、森喜朗首相(当時)が、日本は天皇を中心とした神の国と発言して謝罪に追い込まれたことがあった。これからの天皇の譲位・即位に関する明治以来の伝統という一連の行事を通じて、日本はまさに神の国一色に染まり、多くのひとびとが素晴らしいこととして歓迎する様子を観ることになるのだろう。おそらく、森氏は正しかった。
「平成最後の……」とともに「新しい時代が始まる」という言葉が飛び交い、日本はしばらくの間、高揚した空気に包まれることになる。爽やかな気候の季節ではあるが、なんとも憂鬱である。 (2019/04)
<2019.4.9>
「令」の明朝体(左)と教科書体(右)
NHK「クローズアップ現代」HPより