いま、思うこと〜提言・直言・雑感〜 工藤茂
第85回:濁流に思う
10月の台風19号の被害から1カ月が過ぎた様子を、テレビ、新聞は大きく報道していた。被害に見舞われた地域は少なくなく、中部地方から関東、東北地方にまでおよぶ。被害程度も相当深刻で、自分が被害者だったら、これ以上生きていくことを諦めたくなるような惨状である。9月の台風15号では千葉県の多くの家屋が被害に遭っていたはずだが、最近ではあまり報道を目にしなくなってしまった。
我が家はマンションの4階で、ハザードマップでは近くの隅田川が決壊すれば2階まで水に浸かるという地域だ。断水に備えて浴槽に水を張り、ベランダの物干し竿を外したり程度の備えらしいことはやったが、停電になったらお手上げである。最も怖いのは、よそから風で飛んできたものが窓ガラスを突き破ることだ。向かいの団地には、窓ガラスに粘着テープを×印に張っている部屋もいくつか見えた。
実際のところ、台風が東京東部を通過した10月12日夜半になっても、雨も風もたいしたことはなかった。もちろん風雨は強かったのだが、これまでももっと猛烈で怖い台風があったように思う。
いつも思うことだが、まるでロシアン・ルーレットである。いつ自分が被害に遭うのかわからない。いつだって起こりうる。今回は、たまたま運がよかっただけのことでしかないのだ。
台風19号が去った10月13日、東京の空はよく晴れ上がっていた。近くの隅田川に行ってみた。堤防の内側、水面に最も近いテラス部分には、上流から流されてきた木や葦のようなものが堆積していたが、水面は普段よりも少し高め程度だった。それでも一時はテラスまでは水に浸かったようだが、この程度のことはこれまでも何度かあった。
その後、北区赤羽近くを流れる荒川と隅田川を分ける岩淵水門へと出かけてみた。わが家から隅田川右岸沿いに1.5キロメートルほど上流になる。堤防に上がると、眼前の光景は普段とは一変していた。河川敷のバーベキュー場もサッカーグラウンドも、野球場も、ゴルフ場もすべて水に隠れ、見えているのは木々の頭の部分だけだった。水面は平常時よりも7メートルも高い位置になっていた。
天気もよく気持ちがよいのだが、目の前に広がる光景はといえば、濁流が勢いよく流れるばかりで、水の圧倒的な強さを見せつけていた。その濁流の向こうには、埼玉県川口市の町並みがいつものように佇んでいた。
帰宅後に確認した荒川下流河川事務所のHPの記録からは、台風接近にあたり、荒川から隅田川への流量を水門によってセンチメートル単位で調整していたことが見てとれた。そして水位が4メートルに達した10月12日21時7分に完全に水門を閉じている。おそらく交通管制室のようなところで、職員たちは徹夜でモニターで流量を注視していたのであろう。この岩淵水門から下流の荒川を「荒川放水路」とも呼ぶが、まさに隅田川流域を守るために設計された堅牢な放水路である。
荒川では被害がなかったため、テレビなどではまったく話題にもならなかった。そこで岩淵水門付近で目にした光景をまとめ、10月19日付『東京新聞』の「発言」欄に掲載してもらったのだが、わずか350字ということもあって中途半端な内容で終わった。そんなことも忘れかけていた11月8日、『東京新聞』「したまち」欄に、台風19号の際に岩淵水門が果たした役割について、カラー写真付きで紹介されていた。
荒川下流河川事務所への取材を加えて、掘り下げた内容になっていた。岩淵水門の完全閉鎖は2007年9月の台風9号以来のことで、12年ぶりだったという。水門を閉鎖したあと、13日午前9時50分、最高水位の7.17メートルまで上昇したが、荒川の氾濫危険水位(7.70メートル)には若干の余裕があった。水門の閉鎖は、水位が低下した15日午前5時20分まで続けられた。12日の夜、まさにあのタイミングで閉鎖していなければ、隅田川の堤防を越水し、氾濫した恐れがあったという。
荒川放水路開削工事は当時の内務省の管轄で、1911(明治44)年に着手された。工事計画はドイツで学んだ原田貞介、パナマ運河の測量設計にも携わった青山士[あきら]が工事の指揮をとり、1924(大正13)年に岩淵水門(現在の旧岩淵水門)が完成、1930(昭和5)年、距離にして24キロメートル、最大幅500メートルの放水路が完成した。
荒川、隅田川に関しては、今回の台風19号では結果的に被害がなかった。運よく下町を守ることができたようだ。
岩淵水門に行った1週間後の10月19日、埼玉県戸田市の荒川第一調節池へと出かけた。空はどんよりと曇っていた。荒川第一調節池(彩湖)と「彩湖・道満グリーンパーク」は一体となったもので、全体でとてつもなく大きな公園になっている。2020年東京オリンピック・パラリンピックのボート競技の候補として、彩湖の名前が挙がったこともあったし、ヤクルトスワローズのファーム球場である戸田球場もここにある。
広い大きな公園ではあるが、あくまでも荒川増水時の水の逃げ場としてつくられたもので、計画では第五調節池まであるのだが、第一調節池のほかは第二、第三の測量が始まったばかり。台風19号では、岩淵水門と荒川放水路、そして荒川第一調節池も連動して東京の下町を守ったのだが、それでもまだ充分とはいえないようである。
増水時の水の逃げ場ということは、増水時にはすべて水没することが前提となった公園である。水はまだ若干残っていたが、今回の台風19号でもすっかり水没したようだ。木の幹は、中ほどから下は泥にまみれたばかりといった色をしていた。ちょうどキンモクセイが咲いていたが、大きな木も花も下の方は泥まみれだった。
公園に降りることはできなかった。降りるのは勝手だが、靴もズボンも泥まみれになることは必定だ。したがって、広い公園を上から眺めながら堤防を歩くだけだ。事務所のような建物も、サッカーグラウンドも野球場もすべて泥だらけ。そんな光景を眺めながら、満々と水を満たした様子を思い浮かべてみた。
こういった施設に大量の水を留めおくことで、どうにか荒川の流量を抑えられたのだ。東京については、当初、江東5区(墨田、江東、足立、葛飾、江戸川)のゼロメートル地帯が危険視されていたが、大きな被害がなく済んでいる。
荒川水系とは別に、利根川水系には渡瀬遊水池、群馬県の吾妻渓谷の八ッ場[やんば]ダムがある。利根川水系も東京とは無関係ではない。千葉県野田市関宿[せきやど]付近にある関宿水門によって利根川から江戸川が分かれ、さらに江戸川区篠崎付近から下流部は江戸川放水路となり、葛西臨海公園や浦安方面に流れる旧江戸川と分かれて、それぞれ東京湾に注ぐ。利根川の流量の調節なしには、東京下町の安全はないのだ。
今回の台風19号では、栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる渡瀬遊水池が相当量の水を溜め込んだといわれている。また、洪水調節機能の有無でネット上で話題となっている八ッ場ダムだが、来春本格稼働の予定で10月1日より試験湛水[たんすい]が開始されたばかりだった。ほとんど空で、平常時とは異なる状態だったところへひと晩でたっぷりと水を溜め込んだのだから、今回に関しては治水効果を否定するつもりはない。ただ「ダム不要論」は、こういった洪水調節機能とはまた別の問題のほうが多くを占めているので、機会があったら取り上げてみたいと思う。
大都市東京の東部の場合は、こういった幾重もの手厚い施設によって水害から守られており、今後もより拡充していくらしい。今回一部で逆流による冠水被害があった多摩川も、さらに充実した調節機能が整備されていくはずだ。しかし、このように整備されるのは東京のほか、いくつかの大都市だけだろう。地方の決壊した堤防、土砂崩れ現場はすべて改修されるのであろうか。結果的に虫食いのように、あちこち取り残されることになるのではなかろうか。
今回被災したひとびとの生活も同様、どれだけの被災者が元のような生活に戻ることができるのであろうかと思うと、暗澹としてしまう。自分自身を被災者に置き換えてみるとよく理解できる。自己資金の有無で分かれることになる。
政治が壊れつつあるが、国土も民の生活も同様である。映画『日本沈没』(1973年)では一気に日本列島が海中に没してしまうが、現実はじわりじわりと崩壊が進む。そんなことを考えさせられた台風15、19号だった。 (2019/11)
<2019.11.16>
台風19号時の岩淵水門から見下ろした荒川の様子(荒川下流河川事務所HPより)
荒川と隅田川を分ける突端部分にて(前方が秩父方面、右後方が荒川へ、左後方が隅田川へ)<写真提供・筆者/以下同>
閉じきった岩淵水門
荒川第一調節池
下半分が泥にまみれたキンモクセイの木(荒川第一調節池)